誰が見ているのか


 画廊を回ろうと銀座へ行った。柳通りと並木通りの交差点で、不意に鞄のなかに手紙を入れていたことを思い出した。近くにポストがないかと見まわした。ちょっと離れたところに赤い郵便ポストが立っていた。いや、ある意味目の前にあったのだ。
 しかし、ポストを探したのは事実だったからその時点ではポストの存在に気付いていなかったのだ。でもポストはすぐ近くにあった。
 こういうことではないだろうか。意識しない脳(右脳?)がポストを認知し、それで意識する脳が手紙のことを思い出してポストを探した。
 以前にも似た経験をしたことがあった。それを「突然なぜ思い出したのか」で書いていた。

 道を歩いていて急に手紙を持ち歩いているのを思い出した。何かポストのイメージが浮かんだ。この辺りにポストがあるような気がして探すと歩いてきたビルの陰にあるのを見つけた。手紙を投函して考えた。なぜ今急に手紙のことを思い出したのか。
 以前からこの辺りを歩くことがあったので、ポストがあることを覚えていたのかもしれない。それで手紙のことを思い出したとも考えられる。
 あるいは、歩いてきたとき意識しない背景の風景の中にポストがあることを、意識の潜在的過程が気付いて手紙のイメージを呼び出したのかもしれない。
 おそらく後者なのではないか。日常の風景を、意識は見ていながらその上を滑っていく。背景にいちいち丁寧に付き合っていたら普通に歩くこともできないだろう。ところが、何か違和感があるものに気付いた時、立ち止まり注目する。人が倒れている! とか、鞄が落ちているとか。そして、滑っていく眼と注目する眼の中間の状態が、潜在的意識が気付いたというケースなのだ。意識的には気付いていないが、ちゃんと拾って「手紙」のことを思い出させている。
突然なぜ思い出したのか(2007年2月8日)

 誰が見ているのか? おそらく意識しない自己なのではないか。