森山徹『モノに心はあるのか』を読む

 

  森山徹『モノに心はあるのか』(新潮選書)を読む。森山は以前『ダンゴムシに心はあるのか』(PHPサイエンス・ワールド新書)でダンゴムシにも心があると主張していた。本書ではさらに進んで石ころにも心があるとびっくりすることを書いている。
 森山は心とは「ヒトにおける知・情・意に代表される精神作用のもと」として広く受け入れられてきた。そして、この精神作用の本質を「個性を生み出す仕組み」として、心がヒトだけでなく、動物にも備わる可能性を指摘する。そこから、

……ヒトや動物が備える「行動決定機構の集合体」のうち、個体に行動を発現させている顕在行動決定機構以外の、活動を自律的に抑制している機構の集合体である「潜在行動決定機構群」が、発現中の行動を質的に修飾する可能性があること、すなわち、「行動に個性を与えうること」を導きました。このような考察から、私は、「潜在行動決定機構が心の実体である」と提唱したのです。
 ところで、私は、以前、拙著『オオグソクムシの謎』の中で、心の実体は「隠れた活動体」であると提唱しました。……

  潜在行動決定機構とは、決定されて顕在化した行動の前に複数の不確かな行動決定機構があり、顕在した同じ行動の陰には様々な行動決定機構があって、それが個体の個性だという。これが心の実体だという。
 さらに石器職人は石の割り方を通して、どこを打てば石が割れるか知っている。石は職人が制御して割れるのではなく、石の隠れた活動体によって割れるのだ、すなわち石にも心があるのだと。
 動物=虫の心も、モノ=石の心もおよそ認められるものではない。これは森山の心の定義に問題があるのだろう。もし心の実体はC(炭素)だと定義すれば石炭にも心があることになる。
 私は『ダンゴムシに心はあるのか』を紹介したとき、

……人間の心を考えた場合、まず意識がある。その下位に無意識がある。さらに下位に内蔵の認知がある。内蔵の認知というのは、食べ物が胃袋に入ったときに消化すべき食べ物だとして消化活動をする胃袋を考えることができる。また黴菌が入ってきたときの白血球の対応を考えてもいい。胃袋も白血球も認知をしているだろう。しかし胃袋も白血球も心を持つとは言わない。
 下等動物の反応は内臓の認知に似ているのではないか。単に先験的にプログラムされたものなのだ。それは決して心の反応というものではない。内臓の認知が発達してそれが無意識にまで進化し、さらに進化して意識を作るのではないか。

  と書いた。モノにも下等動物にも心はないだろう。だが、高等動物、少なくとも犬や猫には心があるのだが。

モノに心はあるのか: 動物行動学から考える「世界の仕組み」 (新潮選書)

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