『動物に魂はあるのか』を読んで

 金森修『動物に魂はあるのか』(中公新書)を読む。著者はフランス哲学、科学思想史が専門の人。本書のテーマは「動物霊魂論」、まずアリストテレスから始まる。アリストテレスは、静物の霊魂を3つに分類する。

1.栄養的霊魂−−植物がもつもの。栄養、滋養能力を司るもの。
2.感覚的霊魂−−動物がもつもの。感覚を司る。その結果、それは、表象や欲求とも関係するものになる。
3.思考的霊魂−−人間がもつもの。理性、合理性、高度な思惟などに関係する。

 ついでセネカプルタルコスが紹介され、16世紀のモンテーニュに飛ぶ。モンテーニュも動物霊魂には肯定的だ。
 それが17世紀のデカルトによって強く否定される。デカルトは高等動物の猿でさえ自動人形と区別できないと言い、動物が動くのは歯車やゼンマイで動く時計と同じだという。「動物機械論」と呼ばれる。デカルトはウサギや犬を生きたまま生体解剖もしていたらしい。デカルトの影響を受けたフランスの哲学者マルブランシュは、うれしそうに彼に近寄ってきた妊娠している雌犬を出し抜けに蹴っ飛ばして、「あれは何も感じないんですよ」と冷たく言ってのけた。ポール・ロワイヤル修道院でも生きたままの動物の解剖が何度も繰り返された。
 当然このような極論には多くの反論があった。ガッサンディとかラ・フォンテーヌなどの意見が紹介される。ライプニッツは動物霊魂も不死であるという。ヴォルテールは「動物の苦痛はわれわれには悪に思える」とまで言う。
 18世紀のコンディヤックに至って、現代の動物論に通じるところへ到達する。

……コンディヤックは動物と人間を同列に置くというわけではない。しかし、その両者が共に感覚能力という基盤をもつという意味では同一であり、その意味では両者が仮に知性の水準で違いがあるとしても、それは質的で非連続な差異というよりは、あくまで程度の差にすぎない。その意味でなら、両者は、より高次な一般的な体系の部分をなす連続体だと述べても構わないのである。

 そして現代に移り、最初に『生物から見た環境世界』(岩波文庫)を書いて、その〈環境世界説〉によって思想界に大きな影響を与えた生物学者ユクスキュルが紹介される。「動物は、環境の多様な要素の中から、その動物にとって意味のあるものだけを知覚する。そしてそれへの特定の反応をすることで生命活動をする。その、動物それぞれに固有の知覚世界と作用世界との繋がりの総体のことを、ユクスキュルは〈環境世界〉と呼んだ」。そしてケーラーはチンパンジーに対する一連の実験によって、否定しようもない知能の存在を証明した。
 ついでプレスナーとゲーレンを経て、ハイデッガーが登場する。取り上げられるのは『形而上学の根本諸概念』である。

 ハイデッガーは人間(現存在)にとって世界がもつ意味を探るために(同時にそれは人間の意味を探ることでもある)、ここで人間以外の存在者にとっての世界とは何かという問いをたてる。彼のいう比較考察である。そこでほとんど直ちに結論的な見通しが述べられる。
1.石は無世界的(Weltlos)である。
2.動物は世界貧乏的(Weltarm)である。
3.人間は世界形成的(Weltbildend)である。

 動物の在り方は〈とらわれ〉であると特徴づける。その振る舞いも行為するというより、流されるに近い。「或る動物の生は、その動物の衝動を起動させるものによってとらわれ、流されるようにそれに応じて在るというその在り方そのものなのだ」。いや、しかしハイデッガーは難解だ。
 ついでデリダとバンブネが語られる。さらにピーター・シンガーの動物解放運動が紹介され、さらにカズオ・イシグロの小説『わたしを離さないで』まで展開される。
 最後に著者は「動物に魂があると思っているのか」との問いに答えるという形で結論を書く。

 はい、お答えします。トンボやチョウチョに恐らく魂はないでしょう。でも、彼らは魂をもつ人間と一緒にこの世界に住んでいます。われわれ人間は(常に、とまではいえなくても)昆虫でもあたかも魂をもつかのように扱ってやるべきなのです。ミミズも似たようなものかもしれません。でも、同じことです。恐らく、生物に詳しい人ほどそうだと思いますが、私が雨上がりの朝のミミズや既に死にかかっている蝉を助けてやる時、それは、生物集団全体からみれば、ほとんど完璧に無意味な行為だと見なすでしょう。にもかかわらず私は、少なくともそれほど急いでいない時には、これからもミミズや蝉を助けるでしょう。なぜなら、私の中の魂が、「そうしろ」と命令するからです。
 他方で、猫や犬のようなペット。彼らは、当然ながら魂を持っています。ですから、飼い主の皆さんに御願いしたいのは、飼うのであれば必ず最後を看取るまで、大切に可愛がってあげて下さいということです。彼らは、あなた方の人生を彩るかけがえのない仲間、かけがえのない家族なのです。

 同様に、キリンや馬、象についても魂を持っているのは当たり前だから虐殺してはいけないと説く。自分の中の声が「お前がそんなに複雑で優れた魂をもっているのは、他人だけではなく、他の生物にもできる限り気遣いをすることができるように、そうなっているんだよ」言っているのが聞こえるだろうと。
 本書について中村桂子毎日新聞の書評で高く評価していた(2012年11月11日)。

 科学化された現代の中で、動物の意識でも認知能力でもなく「霊魂」を主題に、動物について自然科学以外の様式で語ろうという実験が本書である。

霊魂論の歴史は平凡だが大事なことを教えてくれた。自分でも考えてみたい。

 読み終わってみれば、まさにタイトルどおりの内容なのだが、少し誤解していた。たぶん、もっと人間寄りの議論を期待していたのだろう。動物の認知能力とか、簡主観性の問題とかを。実際は西洋科学史における動物の位置づけと言ったところだった。そういう意味では少々物足りなかった。