『言語学の教室』を読む

 西村義樹野矢茂樹言語学の教室』(中公新書)を読む。副題が「哲学者と学ぶ認知言語学」というもの。認知言語学なんて本書で始めて知った。これはチョムスキー生成文法に対する批判から80年代に生まれた新しい言語学とのこと。認知言語学者の西村に哲学者の野矢が学ぶという対談形式になっている。対談で語られる認知言語学は意外に面白かったが、そう書きながらやはりなかなか難しかった。本書を読もうと思ったのは、沼野充義毎日新聞の書評で的確な紹介をしていたからだ(2013年9月1日)。本書の紹介は私の手に余るので、沼野の書評から抜粋することで紹介に代える。難しいけれど面白いことは保証する。

(……)認知言語学を専門とする西村義樹氏に、哲学者、野矢茂樹氏が生徒になって聞くという対話の形で進められるので、とても読みやすいが、同時に言語を使う人間の心の動きについて深く考えさせられる内容になっている。野矢氏は先人の学説を解釈するだけの研究者ではない。心と言語について独創的な論を切り拓きながら、それを平易な言葉で語れる本物の哲学者である。彼が鋭いつっこみを入れると、真面目な言語学者がすべてについて緻密に対応していく。わくわくするような学問的対話がたっぷり味わえる。
 具体的な例を挙げよう。日本語には、「雨に降られた」といった言い方がある。一種の受身の文だが、英語では同じような受身の文は作りにくい。「降る」が自動詞だからである。こういった「間接受身」は日本語の特徴の一つで、被害や迷惑をこうむったときに日本人の口から自然に出てくる構文だろう。ところが西村氏によれば、日本語を学ぶ外国人は、間違った類推をして「昨日財布に落ちられました」などと言うことがあるという。これは日本語としておかしいが、どうしてなのだろう?
 他にも面白い例が満載だ。「がんが毎年、数十万人の人を殺している」といった、無生物主語による「使役構文」の翻訳が、どうして日本語では自然に響かないのか? 私からも例を一つ付け加えれば、アメリカで煙草を買うと「喫煙は殺す」(Smoking kills)と書かれていてびっくりする。その違和感の原因は警告があまりに単刀直入であるだけでなく、構文が日本語に馴染まないからでもあるのではないか。
(中略)
 本書はこういった問題に認知言語学の立場からアプローチし、文法と意味、カテゴリーとプロトタイプ、使役構文、メトニミー(換喩)とメタファー(隠喩)といった話題について議論していく。認知言語学といっても多くの読者にはまだあまり馴染みがないかもしれない。それもそのはず、言語学の中でも比較的最近、1980年代から急速に発展してきた新しい分野である。それ以前の学界の主流であった生成文法は、統語論を中心に、人間の持つ普遍的な言語能力を科学的に究明するための道を切り拓く革命的なものだったが、意味の分析は得意ではなく、言語能力を独立した心的器官であると見なしたため、人間の心の働き全般と言語を有機的に関係づけることに無頓着だった。
 それを批判して出てきたのが認知言語学であり、西村氏によれば、認知とはまさに「人間の心の仕組み」に他ならない。生きた人間の心に一歩近づいた言語学、それが認知言語学とも言えるだろう。(後略)

 カテゴリーとプロトタイプという対比も興味深い。「カテゴリー化」とは「分類する」とか「種類に分ける」ということで、カテゴリーの境界線は明確である。それに対して、「プロトタイプ」という考え方は、ある集合に対して、その集合の要素であるか要素でないかのどちらか一方しかないのではなくて、その間に連続した程度の違いを認めるような集合論です、と言っている。その源流はウィトゲンシュタインの「家族的類似性」だという。
 分類論にまで射程が届くようで、認知言語学、面白くて勉強して見たい気がする。巻末には詳しい「さらに学びたい人のための文献案内」が付されている。