『ハラスのいた日々』を読む

 中野孝次『ハラスのいた日々』(文春文庫)を読む。なるほど評判の良い作品だ。本当に面白かった。作家で翻訳家でもある中野が柴犬を飼う。中野は47歳のとき、それまで20年住んだ世田谷の団地を出て、横浜の洋光台に家を建てる。義妹からお祝いに何かあげたいと言うのに犬をほしいと頼んだ。それまで犬を飼ったことはなかったが、運動不足気味だったので散歩用にと軽い気持ちで言ったのだった。
 もらってきた柴犬の子犬に夫婦は夢中になる。ハラスという名前はドイツ人が大型シェパード犬に付ける名前らしい。中野はギュンター・グラスの『犬の年』を翻訳していて、その中に老犬プルートが飼い主の乗った汽車を追いかけて何百キロも走る描写があった。プルートの父がハラスという名前だった。
 プルートが飼い主を追いかけるエピソードは、ハラスと中野夫妻が体験することになる大事件の伏線にもなっている。ハラスが雪山で失踪してしまうのだ。中野夫妻の必死の捜索ともう会えないのではないかと苦悩する、それが作家の筆で描き出される。
 この本は中野の著作の中でも評判が良く出版後の反響が大きかったという。そのことについて中野は、「ハラス後日譚」の中で書く。

 わたしは犬を飼うのはそれが初めてで、従ってどの体験もが新鮮だったから、ハラスの仔犬時代から成犬時代、老犬時代、死まで、彼とともにいた日々のことを全部書いた。犬を飼い慣れた人なら書かないようなことも多かったであろう。要するにウブな飼主の犬とともに暮す日々の喜怒哀楽全部を書いたのである。
 ところが、つまりはそういう書き方こそまさに大方の愛犬家の共感を呼んだのであるらしいのである。犬の飼育法とか、名犬記とか、その手の本はいくらでもあるが、犬との平凡な共生の記録は案外と乏しいことにもそれで気がついた。

 それもあったかもしれない。しかし、この本が大きな反響を呼んだのは、そして新田次郎文学賞を受賞することになったのは、何よりも中野孝次の文学性によることに他ならない。文学として優れているのだと思う。
 金井美恵子が18年飼った愛猫トラーが亡くなるシーンを書いた『目白雑録(ひびのあれこれ)3』(朝日文庫)や、早坂暁が渋谷の野良猫たちの先祖ということでアマテラスと名づけた老猫が、死に場所を求めて明治神宮の森へよろよろと歩いていくのを見守ったエッセイ「一度"死んだ"ボクが送った猫」も強く印象に残っている。
 金井美恵子のトラーの亡くなるシーンは、以下の「名文とは何か」に、早坂暁のアマテラスを送るエッセイは「村松友視アブサン物語」を読む、その他早坂暁の名文」に紹介したことがある。
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名文とは何か(2009年6月18日)
村松友視「アブサン物語」を読む、その他早坂暁の名文(2008年2月27日)


ハラスのいた日々 (文春文庫)

ハラスのいた日々 (文春文庫)