ジョン・ニコルズ『卵を産めない郭公』を読んで

 ジョン・ニコルズ『卵を産めない郭公』(新潮文庫)を読む。訳者が村上春樹で、柴田元幸と二人で気に入った小説を選んで訳している「村上柴田翻訳堂」の1冊。村上が気に入っている60年代のアメリカ青春小説で、なかなか面白かった。巻末に村上と柴田の「解説セッション 青春小説って、すごく大事なジャンルだと思う」という対談が載っていて、さすがにそこで、サリンジャーやアーヴィング、ピンチョンなどとの違いが紹介され、本書の面白さも的確に語られている。
 読み終わって、日本の60年代後半ころの詩人恵口烝明の詩「ユカ」を思い出した。

 ユ カ



国道の方から拡がりはじめる朝
のぞく望遠レンズの焦点にユカが見える
別の街や保育所のある道路をよこぎり
郷里へむかって出発したユカ
組合の建物が見える丘のうえで
村長の子と話していたユカが朝靄をついて歩いている
山のふもとで伐採人夫たちが通りすぎてゆき
昨夜 豪雨のなかですごしたユカ
醒めきらない睡眠薬のためにふらつきながら
国道を歩いているのだ


夜があり
アーケードがあった
梅田地下街の階段をあがると大阪駅の人たちがいる
ネオンのあいだを走り
陸橋をくぐる自動車のライトが
信号機のところで止まっていた
何度ぼくらはそこを歩いたろう
黒ずんだアスファルトが桜橋の方から市外にのびている
ターミナルを通りぬけてセンター街へ歩いた


抱きあいながら
カーテンのある部屋からながめたむこうにプラットホームがあった
バスルームのスリガラスにうつる湯気がユカの肢体からたちのぼる夜
ユカはすてきだった
すごく可愛かった
はじめ胸を撫で
腹部からセクスへのばした指に
ユカの熱っぽい体温が伝わってくる
ふくらんだ乳房にかぶさる頬が
ユカのみだらな空想を伝えてくる
開いた股のあいだに差し入れて
ぼくはユカの肉体の上にいるのだ


地下街を歩きながらのんだ睡眠薬の空き箱をすてると
女店員にみつからないように人混みのなかをすりぬけて
東口へ走った
ニュー阪急ホテルの広告塔のあいだに星が見える
劇場の前で
盗んだリンゴをかじっていると
もう深夜だった
酔いつぶれてたおれた労務者がガードの下にいる
ガムを噛みながら
さらに夜更けのなかで歩きつづけた


ポストオフィスの見える部屋で
ユカの躰じゅうを愛しながらふかい夜をすごした
たばこに火をつけたまま唇のおくで
ふかく重なってゆく体温が揺れうごき
ぬいだ肌着を握りしめてひきつってゆくユカの腕が
ああとても
とてもあかっぽくふくれている
シーツが皺だらけになり
激しい息づかいが拡がってゆくと
部屋は
セクスよりも淋しく揺れていた


(中略)


何度話しあおうとしたことだろう
顔をつきあわせていながら
黙りこけるユカの
下をむいた瞳のおくから
無感動な少女の疲れがみえる
うなずきもしない唇もとから重い溜息がもれ
レモンティーさえユカは飲もうとしなかった
ああぼくの腕のなかに胸のうちに何があったというのだ
ユカは何を求めていたんだろう
今でもぼくは
ユカの何も理解らないでいる
あるいはぼくにとって
理解することの不可能さが理解ったのかもしれない
けれど今になってそれが
ユカとぼくの何だったのか


 わかった わかった わ
 おおさか を はなれる
 もう にど と
 おおさか には こない わ
 ごめん な さ い
 さ よ な ら


ながいながい夜が終わり
国道の方角から拡がりはじめる朝
のぞく望遠レンズの焦点に
郷里にむかって出発した少女の
やけにかすんだ姿が見える

 恵口烝明詩集『衛星都市の彼方で』(他人の街社発行、1969年)より



卵を産めない郭公 (新潮文庫)

卵を産めない郭公 (新潮文庫)