マナーとは何か――村上リコ『図説 英国社交界ガイド』を読む(再録)

 以前マナーについて書いた(4月30日)。それに付け加えることがあったので、ここに再録して、養老孟司のマナーに関する意見を追加する。


 村上リコ『図説 英国社交界ガイド』(河出書房新社 ふくろうの本)を読む。副題が「エチケット・ブックに見る19世紀英国レディの生活」。18世紀の産業革命の結果、19世紀にイギリスではブルジョワジーが繁栄を極めた。豊かになった中流階級が貴族や地主たちからなる上流階級への接近を図った。そのためのエチケット・マナーを教授する「エチケット・ブック」がよく売れた。本書は当時のエチケット・ブックの分析を通じて、どんなエチケットが必要とされたかを紹介している。

 社交界とは、(……)貴族や地主からなる上流階級の人びとが交際するコミュニティだ。そこには、権力・権威をなるべく少数の人間の手中にとどめ、新参者が増えすぎないように防ごうとする力が働く。社交界に属する家系に生まれ育った人なら、当然身につけているはずの風習も、外部の人間にはわからない。そのため、貴族の世界の基本的な交際のルールに通じているかどうかが内と外を判断する基準となった。エチケットが社交界を「下品な人たち」から守る壁となり、また、壁を通り抜ける合言葉ともなったのだろう。

 ここにエチケットの二つの意味のうち、一つがはっきりと語られている。もう一つは他人とのスムーズな交際のためのもので、日常的なあいさつや衝突を回避するための常識的な技術だ。
 社交界が必要としているのは、「下品な人たち」が入ってこないようにするための方法だ。

(……)ゆるぎない地位を保証された、「生まれも育ちも高貴」な上流階級の人びとこそが、「何も気にせずにふるまう」自由と独立が許されていた。ルールを設定するのも彼ら自身であれば、破って楽しむのも自由。身分の低いよそものがドレス・コードを間違って眉をひそめられることに戦々恐々としている一方で、支配階級たる彼ら彼女らは、ちょっとエチケットに違反したくらいでは社交界をつまみだされるようなことはない。自分たち自身が社交界なのだから。

 社交の場である正餐会において、

 移動や席次においては、話しやすさや親しさよりも、序列を守ることが求められる。多少の入れ替えがあるとしても、秩序を乱さない範囲で客への敬意を表すため。つまり、フォーマルな正餐会とは、単に仲良しが集まって食事をするというだけのものではなく、誰が誰よりも上で下か、ということを、同席した全員の目に見えるようにする場でもあった。

 以前ここで紹介したエピソードだが、塩野七生レナウンの広報パンフレットのためのインタビューを申し込まれたことがあった。塩野はアラン・ドロンが出演しているダーバンのテレビCMを全部見せてもらうという条件で引き受けた。見終わって、塩野は感想を聞かれ、「私にはひとことしか言えなかった。。ヨーロッパに戻りたくなったわ」、と。アラン・ドロンは塩野の好きな俳優ではないという。鼻から下が卑しいのだ。だが、このCMのアラン・ドロンはよかった。彼が主演したどんな映画よりも、素敵だった。ヨーロッパが、漂っていたのである。フランスではない。「ヨーロッパ」を、彼は体現していた、と塩野は書く。しかし、ただ一つ食事のシーンだけが良くなかった。ディレクターがそれに応えて、何度もやり直したのに結局うまくいかなかったと言う。塩野が書く。

 アラン・ドロンは美男である。だが、あの美しさは、下層階級の男のものである。気品とか品格とかいうものとは無縁の、美男なのだ。魅力は、たしかにある。(中略)しかし、なぜかかもし出す雰囲気が卑しい。だからこそ、下層の男を演じたときの彼は見事なのだろう。「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンは傑作だった。ところが、古川氏(ディレクター)制作のアラン・ドロンの食事のシーンは、相当に豪華な家の食堂で食べるシーンだった。それも、一人ではない。何人かの人との会食である。ここで、アラン・ドロンのボロが出てしまったのだ。
 テーブルマナーがまちがっていたわけではない。椅子にかけた背もまっすぐ伸びていたし、食卓にひじをついていたわけでもなかった。ナイフもフォークもスプーンも、使い方に誤りがあったわけではない。ガチャガチャと、下品な音をたてて使ってもいなかった。葡萄酒のグラスにくちびるをふれる前に、ナプキンで口許をふくことだって知っていた。口の中を食物でいっぱいにしたままでおしゃべりに熱中するという、許しがたい行為をしたわけでもない。
 つまりアラン・ドロンは、食卓のマナーというならば、なにひとつまちがいを犯さなかったのである。それでいて、印象は不自然だった。なぜかと考えた末、私はこんな結論に達した。
 彼は、いわゆるテーブルマナーとされることを、あまりにもきちんと守りすぎたのだ。守るのは当たり前なのだが、それがきちんとしすぎだったのである。なにか、急に教えられたことをすぐさま実行するようなところが、彼のマナーにはあった。成りあがり者が、教則本どおりに懸命に上品に振舞っているようで、見ているほうが息がつまってしまったのである。
                 塩野七生『男たちへ』から

 教えられたマナーを再現するだけの成り上がり者には、それを崩すことができない。高貴な家系に生まれ育った者なら自然に崩していることが。
 ウィングフィールド『冬のフロスト』(創元推理文庫)の解説を養老孟司が書いている。そこでイギリスのテーブル・マナーに触れている。

 テーブル・マナーというのがある。正式にはナイフやフォークはこう置く。外側から使う。そんなやり方を教えられたことがあると思う。イギリスの貴族にいわせると、あんなものは、もともと貴族の約束事に過ぎないのだという。貴族に見られたい人は当然多い。だからマナー、つまりその約束事を真似する。それがしばらく続くと、貴族でなくても、貴族風のマナーが身についてしまった人が多くなる。それでは貴族間の約束事の意味がなくなる。そうなると本当の貴族どうしで話し合って、マナーを逆にする。外から使うはずのフォークを、内側から使うとか、そういう風に変えてしまうらしい。
 日本人はこういうやり方をしない。典型的なのは、オリンピックのルールである。日本の選手が強すぎるとなると、だれかがルールを変えてしまう。ルールとは、そういう風に変わるもので、もともと理論的根拠なんかないんだから、それでいいのである。世界の人はおおかたそう思っているであろう。それは心得ておいたほうがいい。かれらがいうルールなんて、そのていどのものと思えばいい。

 マナー、エチケットがそういう性格のものだと認識して、完全なそれを目指すのではなく、そこそこに実行すればよいのだろう。養老も言うとおり、所詮、マナー、エチケットの意味するものはその程度のものなのだから。

冬のフロスト 下  (創元推理文庫)

冬のフロスト 下 (創元推理文庫)