アラン『芸術論20講』を読む

 アラン『芸術論20講』(光文社古典新訳文庫)を読む。アランの有名な『幸福論』を読んだのが高校生のときだったから、アランを読むのは50年ぶりくらいになる。こういうユマニストのエッセイにあまり興味がもてなくて、ずっとご無沙汰してきたのだが、本書の訳者が長谷川宏ということで読んでみる気になった。長谷川が訳しているのだから何か得るものがあるに違いない。
 長谷川はヘーゲルサルトルの研究から哲学を始めている。ヘーゲルの翻訳についてはいずれも高い評価を得ている。私も長谷川の著書は何冊か読んできた。とくに『ことばへの道』(講談社学術文庫)と『いまこそ読みたい哲学の名著』(光文社文庫)はこのブログでも紹介している。
 さて、『芸術論20講』である。アランがもっぱら思弁的に芸術を論じている。書かれたのは1930年前後だ。当時に比べて、芸術−美術、音楽、建築、文学等はずいぶん変わっている。アランは総論的に述べているのだが、変化した芸術からアランの論述を見れば、それは古臭く実態に即していないという結果になってしまった。しかし、それ以上にただ思弁的なだけの論述は、芸術に何ら積極的な価値を付け加ええない。
 私たちはすでにベンヤミンの『複製技術時代の芸術』やピカソや抽象表現主義を知っている。むかしサルトルが、知らないということは単なる無知ということにすぎないと言っていたことを思い出す。本書を読みながら、ほとんど無駄な時間を費やしているような気分だった。それでも最後まで読み続けたのは、長谷川が訳しているのだから、そのうち有益なことが書かれているに違いないと思っていたからだった。
 ほとんど退屈だったが、一か所興味をそそられるところがあった。「10講 衣装」の項で、

 もう分かってもらえると思うが、人が上昇し、階級を変わろうとする現代社会では、だれもが自分より上にある流行を進んで採用しようとするし、上流階級は絶えざる変化によってこの侵犯を逃れようとする。絶えざる変化こそが上流階級の突出と特権を――保障する。そして、そうした動きが流行の逆説のすべてを十分に説明する。スキャンダルの種となるものは醜い。すでに述べたように、本当のダンスに具わる規律は、顔立ちを和らげ、どの顔立ちもたがいに似通ったものにし、穏やかさゆえにいっそう美しいものにする。画一的な衣装も無遠慮な好奇心に向かって同じように美しさを守ってくれる。

 「人が上昇し、階級を変わろうとする現代社会では、だれもが自分より上にある流行を進んで採用しようとするし、上流階級は絶えざる変化によってこの侵犯を逃れようとする。絶えざる変化こそが上流階級の突出と特権を――保障する」。流行もテーブルマナーもほとんど上流階級が下層からの侵犯を防ぐためにある。労働者階級出身のアラン・ドロンがどんなに努力しても、上流階級の領域へ達することはできない。アラン・ドロンはテーブルマナーを完璧に模倣することができる。しかし、彼にはそれを壊すことができない。上流階級はマナーを守っても壊してもその地位は変わらない。対して模倣者は間違えないのが背一杯で壊すことができない。上流階級は下層からの侵犯を防ぐために、流行やマナーを変えていく。らくらくと変えていく。
 しかし、流行やマナーがそのようなものだと知ってしまえば、それらを相対化することができる。流行やマナーをふんと鼻で笑って、自由に我が道を行けばよいのだ。
 『芸術論20講』に戻ると、長谷川はアランと相性が良いようだ。長谷川の『いまこそ読みたい哲学の名著』(光文社文庫)には、最初にアランの『幸福論』が取り上げられている。そこに「20代のころ、よくアランを読んだ」とある。「読むと不思議に心が落ちついた」と書かれている。では、早急に結論を出さないで、アランの『幸福論』を読んでみようか。


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芸術論20講 (古典新訳文庫)

芸術論20講 (古典新訳文庫)