吉行淳之介『恐怖対談』を読む

 吉行淳之介『恐怖対談』(新潮社)を読む。12年間にわたって『別冊小説新潮』誌上で行われた40回の「恐怖対談」シリーズの第1巻。面白かったエピソードをいくつか抜き書きする。

 

 生まれ月と性格について淀川長治が説く。

淀川  あのね、7、8、9月生まれは親不孝で、10、11、12の人はセンチメンタル。1、2、3の人は頭がいいの。そして、4、5、6月の方は色気違い(笑)。

 ちなみに淀川は4月10日、吉行は4月13日生まれ。

 

 淀川はアラン・ドロンの『太陽がいっぱい』をホモセクシュアル映画の第1号だという。

吉行  それはどうですか……。

淀川  なぜ、そんなことがわかるかというと、映画の文法というのがあるんです。一番最初、ふたりが遊びに行って、3日くらい遅れて帰ってくるでしょう、マリー・ラフォレの家へ。(……)ふたりが船から降りる時ね。あのふたりは主従の関係になっている。映画の原則では、そういう時、従のほう、つまりアラン・ドロンが先に降りてボートをロープで引っ張ってるのが常識なのね。ところが、ふたりがキチっと並んで降りてくる。こんなことありえないのよ。(……)

吉行  うーん、映画の文法か。説得力が出てきたな。

淀川  そして、モーリス・ロネを殺してしまって、最後のシーンがくるでしょ。その時に、ヨットが一艘沖にいる。あれは幽霊なの。おまえもすぐ俺のところへ来るよ、という暗示なのね。

吉行  なるほど、あのヨットは何だろう、とおもっていた。

淀川  そこへあなたのいうシーン、太陽がいっぱいのシーンがくる。足をバンとあげて喜んじゃう。(……)で、電話がかかってきて、そうかといった時にワインのグラスを持った。彼の手が若くて美少年らしい。それと一緒にモーリス・ロネの死体の手が写るのね。ダブって。握手してるのね。そこへ、また呼ばれていっちゃう……あれは後追い心中なのよ。

 

  北杜夫との対談。

吉行  鬱病は話しても、なった人でないと理解してもらえないという感じですね。

北  第三者には分りませんね、あの感じは。死にたいという気持ちをお持ちになった?

吉行  やっぱり、それはありましたね。ほんとにあぶないんじゃないですか、鬱病は。

北  勿論、自殺の90パーセントが鬱病なんですよ。ノイローゼで自殺なんて新聞に載ってるけど、あれはほとんど鬱病です。

 

  自殺した私の友人たちも、みな鬱病だった。

 殿山泰司との対談で、男のナニが大きいという話になる。

吉行  (……)「ディープ・スロート」に出てきた髭はやして大泉滉みたいな顔した男優(ハリー・リームズ)、彼が出てくると期待を持たせますね。あの親分が出てくると、女の叫び声の具合がまるで違う。(……)ぼくは何気なく入ったんだけど、「ディープ・スロート」の前の「巨きな男とバタフライ」とかいうのにも、出演していた。もう鬱然として大家の風貌なんだな。それがゆったりと寝そべって、煙草なんかふかしている。女が、どうしてもヤラしてくれといって、チャックはずして舐めるわけです。そこらのところの現物は消してありますね。ところが、男の胸のあたりに女のくちがある。どうなっておるのか、としばし考えると、その間全部ペニスなんですね。

 

 極め付きは立原正秋との対談。

 立原は学生のとき剣道4段、喧嘩も上手で強かった。でも負けたことがあると言う。戦後新宿で飲んでいたとき、新宿を仕切っていた尾津組のヤクザに絡まれた。セイガク(学生)の身分でこんなところで飲んでいて生意気だ、おれに一杯おごってくれと言う。断るとそいつは出て行った。店の女将が気を付けて、と言ったが、かまわず近道を通って行ったら甲州街道の階段の下で3人で待ち伏せしていた。2人で立原の両腕を抑えて、もう一人が真正面から殴った。さんざん殴られて、しばらく横になっていた。上着と時計、万年筆、財布、定期券、学生証、みんなとられた。それから1週間くらいは顔が傷だらけで表に出られない。半月くらいたってから、木刀の30センチくらいのやつを袋に入れて、毎日例の飲み屋のへんをぶらついてあの男を探した。

 ひと月かふた月後に、そいつがポン引きやっているのを見つけた。立原は学生服じゃなかったから、いい女がいるよって声を掛けられた。じゃあ、行こうって、前に殴られた暗がりへ連れて行って木刀で肩甲骨をぶったたいた。それで倒してからキンタマを靴で踏み潰した。それから上から覗き込んで、顎を手で押さえておいて口の中に木刀を突っ込んだ。木刀を抜いて、おまえ、おれを覚えているかと言ったら、覚えている、よく分かったろうと言ったら分かったと言う。それでその寝ているやつを木刀でバンバン叩いて肩甲骨を折った。折れるのが分かるんです。木刀を袋に収めて、あとは一目散に新宿駅に飛び込んで帰ってきた。それから約2年、新宿に出入りしなかった。

 

 立原正秋は流行作家だった。「正秋」と書いて「せいしゅう」と読ませる。朝鮮人と日本人のハーフだと自称していたが、両親とも朝鮮人だった。剣道や日本の庭園に詳しかった。私も一時期ファンで何冊も読んだのだった。