『冬のフロスト』が絶品だった

 R・D・ウィングフィールド『冬のフロスト(上)(下)』(創元推理文庫)を読む。フロストシリーズ第5弾、デントン警察署のジャック・フロスト警部を主人公にしたミステリ。上下2巻、あわせて1,000ページ近い長篇。滅法面白く読んだ。フロスト警部シリーズは鮮やかな名推理ではなく、ハチャメチャなユーモアが売りの警察小説だ。とにかく下品な言動の数々で、電車の中で読んでいても笑いをこらえきれない。
 夜の女たちの出没エリアにフロスト警部の部下のモーガン刑事と女に財布をすられたというヒューズの乗る車が近づく。娼婦が客が来たかと進み出てきたが、モーガンに車を停める気はなかった。女はまた建物の壁にしどけなく背中を預けた。

「あれは駄目だな。薹(とう)が立ってる」とモーガンは感想を述べた。
「ああ、皇太后(クィーンマム)ばあちゃん陛下かと思ったよ」ヒューズはそう言うと、フロントガラス越しにじっと前方に眼を凝らしはじめた。

「皇太后」には割注が付いていて、「現英国女王エリザベス2世の母、長寿で知られた」とある。
 ついで、殺人現場に検死官のドライズデールが秘書兼助手のブロンド女を連れて現れる。彼女は、

……ボスが何を引っかきまわそうと顔色ひとつ変えずにいられるにもかかわらず、あの傍若無人フロスト警部が投げかけてよこす不埒なウインクやら好色な流し目には警戒心を剥き出しにしてしまうところがあった。秘書兼助手の女としては、懲りていたのである。床に落ちたものを拾おうとして身を屈めたとき、尻に指を突き立てられたことと、あの耳障りな馬鹿笑いと、「浣腸は好きかい?」という台詞は、忘れようにも忘れられるわけがない。

 殺人事件が次々に起こり、いずれの事件も解決はおぼつかなく、上司の警察署長マレット警視が、経費の使いすぎや報告の遅れを叱責してくる。フロストは事務仕事が苦手で、しかもしばしば経費の上乗せを計っている。
 本書末尾の養老孟司の解説も面白かった。

 テーブル・マナーというのがある。正式にはナイフやフォークはこう置く。外側から使う。そんなやり方を教えられたことがあると思う。イギリスの貴族にいわせると、あんなものは、もともと貴族の約束事に過ぎないのだという。貴族に見られたい人は当然多い。だからマナー、つまりその約束事を真似する。それがしばらく続くと、貴族でなくても、貴族風のマナーが身についてしまった人が多くなる。それでは貴族間の約束事の意味がなくなる。そうなると本当の貴族どうしで話し合って、マナーを逆にする。外から使うはずのフォークを、内側から使うとか、そういう風に変えてしまうらしい。
 日本人はこういうやり方をしない。典型的なのは、オリンピックのルールである。日本の選手が強すぎるとなると、だれかがルールを変えてしまう。ルールとは、そういう風に変わるもので、もともと理論的根拠なんかないんだから、それでいいのである。世界の人はおおかたそう思っているであろう。それは心得ておいたほうがいい。かれらがいうルールなんて、そのていどのものと思えばいい。
 フロストを読んだら、いろんな意味で、英国社会の常識がわかる。それと同時に、人間はどこでも同じだということもわかる。読んで楽しみながら、そういうことがなんとなく理解できるのが、じつは推理小説の本当の面白さではないだろうか。

 フロストを読んでいて、一番不満なのが、このミステリが終わってしまうことだ。もっともっと長くて、いつまでも読み終わることがなければもっといいのに。『源氏物語』とか『失われた時を求めて』とか『特性のない男』くらい長ければいいのに。
 養老孟司の解説に関連して、塩野七生アラン・ドロンのテーブル・マナーについて言っていたことを思いだした。養老に近いことを言っている。
アラン・ドロン、下層階級の美男(2007年6月28日)


冬のフロスト 上 (創元推理文庫)

冬のフロスト 上 (創元推理文庫)

冬のフロスト 下  (創元推理文庫)

冬のフロスト 下 (創元推理文庫)