中沢新一・河合俊雄 編『思想家 河合隼雄』を読む

 中沢新一・河合俊雄 編『思想家 河合隼雄』(岩波現代文庫)を読む。河合隼雄ユング派の精神分析家。河合俊雄は河合隼雄の息子。中沢と河合俊雄の対談、河合隼雄の論文に、中沢、鷲田清一、赤様憲雄、河合俊雄、大澤真幸の諸論文、それに養老孟司と河合俊雄の対談が集められている。
 河合隼雄は13世紀の日本の仏僧である明恵上人とアッシジの聖フランチェスコを比べている。そしてその二人の精神的な生活や体験の類似性を指摘している。
 私には中でも大澤真幸の「河合隼雄の『昔話と日本人の心』を読む」と、河合俊雄が聞き手となった養老孟司との対談「河合隼雄と言葉」がおもしろかった。
 大澤真幸の論文では、日本の昔話で《見るなの座敷》という例が取り上げられる。男が村の外で見知らぬ大きな屋敷を発見する。そこに美しい女がいて、出かけるからと男に留守を依頼する。その時ある座敷について、男に決して見てはならないと約束させる。男は誘惑に負け禁を犯して部屋を覗いてしまう。帰った女がそれを知って悲しみながら去っていく。その時女はうぐいすやトビなどの鳥に姿を変える。それに対して西洋では、非情に長い話になっていて、《見るなの部屋》はその中のエピソードの一つに過ぎない。部屋を見てしまうくだりは女を窮地に落ち込ませるために作られた前段階で、悪い夫によって窮地に陥った女がヒーローに救われるというのがポイントになっている。
 日本の《見るなの部屋》に対応して、西洋には〈宮廷愛〉の話がある。〈宮廷愛〉では騎士が貴婦人を好きになるが、必ず騎士よりも貴婦人の方が身分が高い。貴婦人は身分の高い人と結婚していて騎士との関係は不倫である。そして絶対的な条件があって、「二人は結ばれてはいけない」。トリスタンとイゾルデを思い浮かべればよい。なぜ結ばれないか?
 何が禁止されているのか、この〈宮廷愛〉には答えが書いてない。それは女性の中に、人間になれない部分、いわば「非人間的な部分」があり、その「非人間」性そのものに、いわば人間としての男性はアクセスできない。

(……)西洋の物語では、おんなについて否定神学的にしか語っていません。日本の話では、おんなはクモだった、ツルだった、山姥だった、という話があっさり出てきます。すると、おんなのなかにある「非人間」性が、日本の昔話のなかでは、いわば素朴に、ストレートに、声高に暴露される。それを何であるとも否定的にしか語らないのが西洋の常道なのです。

 中沢と河合俊雄が対談ではっきりと河合隼雄は思想家だったと言っている。河合隼雄をしばらく読んでいきたい。



思想家 河合隼雄 (岩波現代文庫)

思想家 河合隼雄 (岩波現代文庫)