大澤真幸『考えるということ』を読む(その1)

 大澤真幸『考えるということ』(河出文庫)を読む。これが難しいけれどとても面白かった。3つの章に分かれていて、社会科学の章、文学の章、自然科学の章となっている。社会科学では「時間」、文学では「罪」、自然科学では「神」を主題に、それぞれ数冊の本を取り上げて思考を展開している。そこに取り上げた本を紹介する。
第1章 社会科学篇(テーマは時間)
真木悠介『時間の比較社会学
カール・マルクス資本論
ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』
・エルンスト・カントローヴィチ『王の二つの身体』
マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
第2章 文学篇(テーマは罪)
夏目漱石『こころ』
ドストエフスキー罪と罰
赤坂真理『東京プリズン』
イアン・マキューアン『贖罪』
・フィリップ・クローデル『ブロデックの報告書』
第3章 自然科学篇(テーマは神)
・吉田洋一『零の発見』
・春日真人『100年の難問はなぜ解けたのか』
・大栗博司『重力とは何か』
・ヴィクトル・I・ストイキツァ『絵画の自意識』
・リチャード・ファインマン『光と物質のふしぎな理論』
・ブライアン・グリーン『エレガントな宇宙』
 まず真木悠介の『時間の比較社会学』から、

 時間は、何らかの意味で「不在」の様相をもつ他者との関係である。存在の最も確実な相が現前(現在)だとして、「すでに(いない)」「いまだ(いない)」という様相をもっている他者たちを、それ自体、存在として受け取ったとき、時間は現れる。(中略)近代の主要な思想家が、時間の解体の危機を感じたとき、さまざまな様態の「現在の〈私〉に依拠してこの危機に対応しようとしたのは、このためである。その代表が、「われ思う」(デカルト)だが、真木が述べているように、「われ信ず」(プロテスタント)、「われ感ず」(ロマンティシズム)等は、すべて現在の〈私〉のヴァリエーションだと解釈することができる。このように、現在の〈私〉が、過去や未来といった様相をもつ他者たちと関係をきり結んだときに、時間が現れるのである。

 ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』から、歴史意識の誕生を説く。

……ネーションは、今しがた述べたように、互いのことをよく知ることのない市民たちの抽象的な集合である。しかし、その集合が、内的な結束力をもつためには、概念にとっての典型的なイメージに対応する働きを担う要素が必要だ。つまり、人々が、「それ」に自分たちを投影することを通じて、互いの間の、ときには世代を超えた有機的なつながりを実感できるような、典型的なイメージによって補完されなくては、市民の集合は、運命共同体としてのネーション(国家)へと転換することはない。そのイメージのことを、ナショナリズムの研究家は、「エトニ(民族)」と呼んでいる。「血」や「土地」によって運命的に結びついた共同性としてのエトニである。
 歴史の必然性は、ここから出てくる。エトニにとって重要なことは、自分たちを他者たちから分かつ具体的特徴である。その特徴は、他者たちと自分たちをより明確に分けることができればできるものであるほど、望ましい。そうした具体性を確信するための手がかりとなるのが、歴史、自分たちの来歴を表現する物語である。歴史は、こうして、ネーションにとって不可欠の意匠となるのだ。ネーションは、こうして抽象的な時間と並んで、具体的な物語によって充実した直進する時間を必要とする。

 ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』から。資本主義の精神とは、人はあらゆる幸福や快楽を放棄して、貨幣の獲得と増殖に勤しまなくてはならない、というものだ。資本主義の精神は、それゆえ、通念とは逆に、徹底した禁欲を、いわゆる「世俗内禁欲」を要求する。
 ヴェーバーによれば、これはプロテスタントの生活態度から出てくる。特に重要だと見なしたのが、カルヴァン派の予定説だ。予定説とは、全知の神は、誰を救い、誰を呪うかということをあらかじめ決定しており、人間の行為によって、これを変更することはできない、とする教説だ。しかも人間の方では、この神の予定の内容を、知ることができない。
 この予定説が資本主義の精神につながる不思議をおもしろい例をあげて大澤が解く。教師がその学期の授業の前に、生徒たちに対して、君たちの合否の判定はすでに決めてあると言ったとする。すると、ほとんどの生徒たちは怠けるだろう。ところが予定説では生徒たちが熱心に勉強しているというケースにあたる。
 大澤は、量子力学者のウィリアム・ニューカムが見出したパラドクスを紹介する。ニューカムのパラドクスは独特のゲーム状況から導かれる。目の前に2つの箱が置かれている。透明で中が見える箱と不透明なブラックボックスだ。透明な箱Aには1000万円の札束が入っているのが見える。不透明な箱Bは空っぽであるか、もしくは10億円が入っている。ニューカムが考案したゲームは、行為者の取る選択は、(1)不透明な箱Bのみを取るか、(2)透明な箱Aと不透明な箱Bの両方を取るか、というものだ。
 ニューカムはこのゲームに「予見者」を導入する。予見者が箱Bに10億円入れておくか空にしておくか決めるのだ。予見者は、行為主体が(1)を選択すると予想した場合に箱Bに10億円を入れ、(2)が選ばれると予想した場合には箱Bに何も入れない。行為主体には予見者が何を予想したかは教えられない。ただし「予見者が(1)を予想したときにのみ、Bに10億円が入っている」ことは教えられている。この予見者が神に対応している。
1.予見者の予想が(1)であったときは、箱Bに10億円入っている。行為主体が(1)を選択した場合には10億円を得る。(2)を選択した場合には10億1千万円を得る。
2.予見者の予想が(2)であったときは、箱Bに何も入っていない。行為者が(1)を選択した場合には何も得られない。(2)を選択した場合には1000万円を得る。
 このように予見者がいてもいなくても、行為主体の合理的な選択は(2)になる。ところが、予見者のいるゲームでは(1)を選択する者がいる。これがニューカムのパラドクスだという。この(1)=世俗内禁欲を選択する者が、予定説を信奉するカルヴァン派の信者なのだ。

 行為主体である「私」は、無意識のうちに、次のように推論する。予見者=神は、私が、何を選択することになるかを、最初から知っている……これが、行為主体=私の大前提である。この前提は、言い換えれば、予見者があらかじめ(私の選択の前に)、事後の視点(私の選択の後に属する視点)をもっている、ということでもある。この前提によれば、予見者は、本来であれば私が選択してしまった後にわかるはずのことを、最初から知っているということになるからだ。行為主体である私は、事後の視点の存在を、予見者に帰属させるかたちで想定しているのである(逆に言えば、予見者が存在しなければ、事後の視点を想定することができない)。この前提の下で、どのように推論は展開するのか。
 私が(1)を選択したとしたらどうだろうか。それは、予見者である神が、過去において私がとるだろう行為として(1)を予想していたことを意味する。逆に、私が(2)を選択したらどうか。もちろん、このときには、予見者=神が、過去において、(2)を予想していたことになる。私が、10億円を得る(救済される)のは、予見者=神が、(1)(世俗内禁欲)を予想していたときだけである。それならば、私は、「予見者=神が、私の将来の行為として(1)を予想していた」ことになるように、実際に、(1)(世俗内禁欲)を選択しよう。……これが、行為者の無意識の推論である。
 こうして、支配戦略(2)を裏切る、ニューカムのパラドクスが導かれる。あるいは、予定説の下で、信者の世俗内禁欲が生ずる。

 以上は、ヴェーバーが言いたかったことの論理的な核を、ゲーム理論の形式へと書き換えたものだという。それをさらに前へ進める。

 行為主体である私が(1)を選択するまでの無意識の推論をもう一度振り返ってみよう。この推論の通りであるとすれば、ある意味で、「私」は、過去(の条件)を変化させる自由を持っている、ということになる。私が何を選択するかによって、(未来のすべてを予定=予想する機能をもつ)予見者=神が何を予定していたかが決まるからである。とするならば、その含意は、またしてもきわめて逆説的である。
 予定説は、運命論的な決定論である。神が世界の運行をあらかじめ予定しており、すべては、まさにその通りに展開する。だが、今、確認したことは、予定説のポテンシャルを徹底して引き出した場合には、予定説そのものが根本から否定される、ということである。なぜならば、行為主体は、ある意味で、過去さえも書き換え、決定できる、ということになるからだ。
 普通は、過去は既定的であり、未来には開かれたさまざまな可能性がある、と考えられている。そのうえで、予定説は、未来すらほんとうは開かれておらず、神が予定しているのだ、と教える。だが、その予定説を徹底させようとすると、未来だけではなく過去さえも、現在の選択によって、不断に書き換えられている、という結論を受け入れなくてはならなくなる。本来は、運命論だった予定説から、逆に、驚異的な自由が引き出されることになるのだ。このように、自己否定にまで導かれた予定説を、〈突き抜けられた予定説〉と呼ぶことにしよう。あるいは、通常の「予定説」と区別して〈予定説〉と表記することにしよう。

 ニューカムのゲームにおいて、支配戦略をとる行為者とカルヴァン派の行為者の違いは、前者は予見者の予想は不確実であり、はずれることもありうると考えている。カルヴァン派は、未来において、つまり事後において明らかになることを予見者は「すでに(最初から)知っている」と確信しているのだ。

……事後から振り返ると、その決定的な出来事までの過程が宿命であり、必然であった、と見えてくる。ここで、次のように考えればよい。この事後の視点に見えていることを、最初から知っていれば、それこそが、(「予定説の)神なのだ、と。
 だが、事後の視点には、もう一つの別の効果、別の側面もあるのだ。決定的な出来事までの過程は必然であったという印象とは逆に、いやむしろ、そのように見えるがゆえになおのこと、その出来事を避けるこもができた、その出来事が起こらないようにすることも可能だった、とも見えてくるのだ。

 このように、事後の視点から捉えるとき、出来事までの過程は、必然(運命)であると見えると同時に、まさにその必然を回避する自由が、過程のあらゆる時点に孕まれていたことが明らかになるのだ。さらに、こう感じるはずだ。その後者の、実現されなかった自由が、過去において行使されていれば、現在の自分はいなかった、と。

……事後の視点は、過去に、運命(必然的な過程)を破りえた他なる可能性を見る。同じことは、現在の「われわれ」を過去として見返す、前未来(未来完了)の視点に関しても、成り立つはずだ。つまり、その視点にとっては過去にあたる「われわれ」に関して、「われわれ」自身の即自的な観点にはまったく非現実なものと見えてしまうような、他なる可能性や選択肢を、十分にアクチュアルな道として見ることになるだろう。このとき、「予定説」は自分自身を否定し、〈予定説〉へと転回している。なぜか? それは、もはや、その「事後」にいたるまでの過程の、運命的な既定性を確認する教説ではなく、逆に、その運命を変更できるということ、その運命とは異なる選択をする自由があることを自覚させる態度へと、変質してしまっているからだ。

 ニューカムのゲームに即して言えば、通常のゲーム理論的な合理性に従う行為者にとっては、支配戦略(1)だけしか実質的には選択肢がないに等しい。普通の「予定説」のもとでは行為者は(1)のみを事実上の取りうる唯一の選択肢と見なすだろう。どちらにも自由はない(どちらにとっても実質的に選択肢は一つなのだから)。しかし、〈突き抜けられた予定説〉において、初めて、行為者は、自分が(1)でも、(2)でもどちらでも選択しうるということを自覚する。真実の自由はここにしかない。
 「予定説」は神の存在を前提にしている。これに対して〈予定説〉は超越的な神の存在を否定する。

〈予定説〉のもとでは、われわれは神の存在を肯定することも否定することもできる。ということは、前未来形で現在のわれわれを遡及的に見返すその神は、われわれの外部に自存する超越的な他者ではない、ということを意味している。未来においてわれわれを待っているその「神」が何であるかは、結局、全面的に、現在のわれわれの選択に依存しているのであり、その意味では、「神」は、われわれ自身の投影以外の何ものでもない。

 ここに至って、現在(のわれわれ)は、過去を〈生きられた共時性〉の関係の中で体験することができる。現在は、過去の他者を、現存の同朋と同じような親密な他者として感受し、過去の他者との共存を実感できるのだ。そして〈予定説〉の下では、未来においてわれわれを待ち受けている他者は、われわれのもう一つの姿として現れる。このことは、過去の他者だけでなく、未来の他社もまた、現在と〈生きられた共時性〉の関係に入っていることを意味している。
 ここまでが第1章となる。長くなったので、続きは後日としたい。