木村敏『関係としての自己』を読む

 木村敏『関係としての自己』(みすず書房)を読む。木村は精神病理学者。木村の『人と人との間』(弘文堂)を読んだのはもう45年も前になる。それがとても気に入って友人にも勧めた。木村の『時間と自己』(中公新書)を刊行後しばらくして買って、読まないで本棚に差したままもう35年になる。
 木村敏は、15年前に亡くなった友人原和が古代史学者古田武彦とともに最も尊敬していた学者だ。また哲学者小林敏明が大きな影響をうけたのが廣松渉木村敏だと語っていた。原和は私の大切な友人で深く物事を考える奴だった。
 そんなわけで本書は私が読む木村敏のやっと2冊目だった。ところがこれがめっぽう難しかった。様々な専門雑誌等に掲載した12編の論文から構成されている。木村は精神病理学者だが、言及するのはハイデガー西田幾多郎フッサールヴァイツゼッカーなどなどだ。哲学の分野に大きく踏み込んで精神病理学を説いている。
 「集団のクオリア」の章で、

……人間は他の多くの生物種と同様、集団を作って行動する。集団的行動の中では、各個人は自己の(単数一人称の)生命欲求にしたがう個別主体的な行動と、集団全体の(非人称ないし複数一人称の)生命欲求に根ざした集団主体的な行動とを調和させなくてはならない。(後略)

 この「集団」を多数の個体が生存の必要から集合した形成物と考えるのは、おそらく誤りだろう。私はむしろ、「集団」こそ一次的で、個体は集団が、種としての生存の必要から(もしそう言いたければ進化の淘汰圧によって)細分化し個別化したものだろうと考えている。だからここでいう主体の二重構造も、個体が集団を形成したときではなく、集団から個体が個別化したときにこそ生じるものだということになる。そして――人間の場合――個別化した自他間で共有されるコモン・センスの自然な自明性は、個別自己の自己性にあくまで先行している。私の見るところ、統合失調症(従来の精神分裂病)の基本障害は、この集団主体性と個別主体性(つまり自明性と自己性)の綜合が、おそらく遺伝子レヴェルで困難になっている点にある。
 さらに一言付記しておくならば、この「集団主体性」はさしあたり自分が当面所属している集団全体の主体性を意味するけれど、この「近さ」の契機はさらに掘り下げれば人類全体からすべての「生きとし生けるもの」にまでおよぶ生命的連帯感にまで拡がるものである。その意味で、ここでいう「近さ」はニーチェの「ディオニューソス的原理」に対応するだろうし、それとの関連でいえば「遠さ」は「アポロン的原理」に対応するといえるかもしれない。

 「「集団」こそ一次的で、個体は集団が、種としての生存の必要から細分化し個別化したものだろう」というのは何と魅力的な主張だろう。この延長上に今西錦司が語られることになる。
 「個別性のジレンマ」の章で、

……自己の内部での「死の欲動」を、フロイトはほとんど何の説明もなしに他者や事物に対する「攻撃欲動」「破壊欲動」と言い換えている。死の欲動と攻撃/破壊欲動とのこの一見不可解な同一視は、われわれのように死の欲動を、個別的存在を取り消して生成のディオニューソス的世界に回帰しようとする衝動と見るなら、たちまち理解しやすいものとなるだろう。それは要するに、アポロン的形相を解体しようとする力のヴェクトルが、自己に向かうか他者に向かうかの違いにすぎないのである。
 問題はこの個別性撤回の行き先を、生と見るか死と見るかである。フロイトはこれを「無機的な死」と見た。しかしわれわれは一方で、ヴァイツゼッカーがかつて次のように書いたことをも知っている。《生命それ自身はけっして死なない。死ぬのはただ、個々の生きものだけである》。ヴァイツゼッカーは明かに、個々の生きものがそこから生まれてきて、そこへ向かって死んで行く根源的な場所を、「生命それ自身」と見ていたのである。この個別的生命の根源を生と見るにせよ死と見るにせよ、いずれにしてもそれは、なんらかの「もの」としての対象的な認識を拒むヴァーチュアルな動きであるだろう。われわれとしてはむしろ、《真理に根拠があるならば、その根拠は真でも偽でもない》というヴィトゲンシュタインの語法を借りて、「生命に根拠があるならば、その根拠は生でも死でもない」というだけにとどめておくべきなのかもしれない。

 「〈あいだ〉と言葉」の章で今西錦司が取り上げられる。

 日本の生物学者のあいだでは、進化を個体単位の自然選択によるものとするダーウィニズム、あるいはそれを遺伝子学説で補強したネオダーウィニズムと、一方自然選択を否定して進化の単位を種とみなし、「種は変わるべきときが来たら主体的に変わる」と考える今西錦司の進化論とのあいだに、昔から論争がある。科学的な生物学者は、「種の主体性」などという今西の「妄言」をもちろん認めない。だから世界的なスケールでは、これはまるで「論争」の体をなしていない。「今西進化論」というきわめて非科学的な珍説がある、というぐらいの扱いである。
 しかし、はたしてそれでよいのだろうか。「種の主体性」というテーゼを真剣に検討する余地は残されていないのだろうか。種と個に関する思索のパラダイムを少し変えてやりさえすれば、現在どうみても行き詰まっているネオダーウィニズムの進化思想に対して、今西学説こそ、刮目に値する有力な対案を提供できるのではないだろうか。わたし自身はそのようなパラダイムチェンジの鍵として、種と個の存在様態のあいだの位相的差異、さらにはこの差異をはさんだ種と個の〈あいだ〉そのものへの存在論的着目を考えている。
 種と個の関係について今西は、《個体が種の中に含まれているともいえるとともに、どの個体の中にも同じように種が含まれている。……個体はすなわち種であり、種はすなわち個体である》と言う。これは要するに東洋古来の「即」の論理、あるいは西田幾多郎のいう「絶対矛盾的自己同一」の論理である。

 さらに、犬は他の犬を同種として見分けている。今西はこのように各種個体に具わっている種所属性の自己認知のことを「プロトアイデンティティ」と呼ぶ。

このプロトアイデンティティはもちろん人間にも備わっていて、われわれは自分以外の人間をいともたやすくヒトの仲間だと見分けてしまう。だからフッサールが心血を注いだ「他我認知」の問題や、英語圏の認知論哲学がよくいう「他人に心があることはどうしてわかるのか」というother minds problemなどは、哲学論議としてならともかく、実際の日常生活ではおよそ問題にならない。すべての人間が自らのうちに種としてのヒトを含んでいるからである。
(中略)
 複数の個体が寄り集まって集団を作ったとき、そこで集団の主体性が発生(創発)するというのではない。種というものがまずあって、それは当然複数の個体を含んでいて、それらの個体がたまたま集団を形成したときに、もともとあった種が各個体の行動を規制する〈場〉となって、集団全体に「一糸乱れぬ」行動をとらせるのである。

 今西錦司の進化論が肯定される場面を久しぶりに読んだ。西田幾多郎今西錦司が結び付けられて語られている。本書は本当に難解なのだが、興味深い主張が随所にある。初版の発行が2005年だったから、2004年に死んでしまった友人原和はこの出版を知らなかった。生きていたら本書について語り合えたのに。


関係としての自己【新装版】

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