廿楽順治『化車』を読む

 廿楽順治『化車』(思潮社)を読む。H氏賞を受賞した詩集。H氏賞は小説の芥川賞に匹敵する詩人にとってとても名誉な賞だ。この詩集がおもしろい。

新大津歩道橋



おじいさんが
なんにんもつながって橋になっている
(あぶないなあ)
ひとがしずかにわたっている風景を
みんな はらはらしながら
眼のちからだけでささえているのである
そのさいごのおじいさん
でんき
がなんだかなつかしいなあ
新大津歩道橋
それは
きみがまだ物質のわかぞうだからだ
おじいさん
の鉄ではつたえられない
地平のしびれ
そこからおれはきたんだよ
あまいたまご焼きと
女房をもって
でも ほんとうは
だれもその背なかをわたっちゃいけない
という掟を
おじいさんに知らせてあげることができない
だまって
遠くをみる
みんなの眼のちからだけでは

 なんという不思議な詩なのか。最近の若い歌人の面白い短歌とは違って、無理に面白く作ったという感じがない。ひょうひょうと天分で作っている印象がある。詩人に言わせれば何言ってるんだよ、苦労して作っているのが分からないのかとなるだろうが、それが分からないからすばらしい。
 次は「漏刻」という長編詩から、その一部を抜き出してみる。

 亀戸天神で人が、
 一九七二年をおがんでいる。



ゆめで、なんかいもでてくる太鼓橋のこと。これはつまり国民のおちんちんのかわりに違いないのだが、今はそれを難詰するところではない。よくおがんだよな。戦争中のこと。文脈がどうもちがう。にょろにょろしているのである。くずもち、くいてえなあ。父である光雄くんのせいせきは、あまりかんばしくない。ないしょだが、この戦争とおなじである。くずもちみたいになって死んでいる。そういうひとをみるのはまだすこしあと。そろそろ亀がでてくるころだ。しずかにめざめないと、ゆめに終戦日がきてしまう。でも寝ながら、くずもち、くいてえなあ、とまだぐずぐず推敲している。まあ、一途におがめば勝てるというものでもない。

 これもおかしいけどよく分からない。廿楽は墨田区曳舟の出身だ。亀戸天神はそこから近い。亀戸天神には太鼓橋がかかっていて、橋の下の池には亀がいる。さらに亀戸天神の近くには葛餅の船橋屋本店がある。しかしながら国民のおちんちんというのも分からないし、唐突に出てくる戦争も何のことか分からない。わからないけれど面白いのだ。
 つぎは「やちまた」という長編詩からその末尾。(実際の詩は尻揃え)

ぺたぺた
すなやまくんの鉄砲がまた鳴っている
夜のすなやまくんはしつこい
このおれのてっぽうをうけてみろ
みなさん
こんなときに
廊下ですもうをとるのはやめましょう
きみたちはどうしてそんなに国技にこだわるのですか
意思
を消すために
ぼくはいい年をしてすもうの詩をかいているんだ
すなやまくん
きみのほうこそ
このおれの夜のてっぽうをうけてみろ
すごいぞ
ぺたぺたしてるぞ
ひとりずもうのたびかさなるくやしさはずかしさ
あらゆるみちは
ぼろぼろの蔵前国技館へといたる
みるからにしつこい散文詩のことはだまっていよう
どこで終わらせていいのか
妻にきいてもこたえない
だって眠いし
(かせぎもすくないくせに)
人称がうるさくてしょうがない
うちのなかへ廊下をもちこまないでほしいのだ
すなやまくん
いいか、ここはひとんちなんだぞ
かんべんして
わたしに夜をかえしてほしい
それから
ごはんのおかわりももうやめてほしい懇願します

 ひとつのイメージが次々と連想を呼び、また飛躍する。この人の頭の中はどうなっているのだろう。詩人に直接会いたいとは思わないけど、頭の中は見てみたい。



化車

化車