内田樹『修行論』を読む

 内田樹『修行論』(光文社新書)を読む。内田は哲学者であり合気道の道場を主宰している。本書は主として合気道に関する原稿をまとめたもの。演劇評論家渡辺保毎日新聞に書評を掲載していた(2013年9月29日)。それで購入していたが、このほどやっと読んだ。

 内田樹はフランス思想を研究し、その一方で合気道を学び、能を稽古した。そして言語化しにくい日本人の身体観の一端を言語化することに成功した。その意味でこの本は画期的である。
 西欧と日本の身体観の違いはどこにあるのか。
 たとえば修行の仕方。アスリートたちは目標を立て、その達成のために練習を繰り返す。その結果はすべて数値化される。しかし合気道の稽古には目標がなく、結果の数値もない。工夫を重ねて稽古するうちに、ある日思いがけない技が出来るようになる。そうなるのは、それまでの既成概念から解放されて新しい自分を発見した時である。すでに決められた目標を達成するのではなく、自分のなかに新しい自分を発見することに意味がある。(後略)

 内田は25歳から多田宏先生に師事したという。また開祖は植芝盛平先生だとある。植芝盛平といえば合気道のチョー達人ではないか。このブログでも取り上げたことがあった。まず大正生まれの合気道の達人塩田剛三についてWikipediaから、

 塩田剛三は、東京府四谷区(現・東京都新宿区四谷)出身の武道(合気道)家である。身長154cm、体重45kgと非常に小柄な体格ながら「不世出の天才」と高く評価され、「現代に生きる達人」とも謳われた。(中略)
 1962年に養神館を表敬訪問したロバート・ケネディ夫妻の前で行った演武では、塩田の強さを疑ったケネディの申し出によって同行していたボディーガードと手合せを行い、これを圧倒している(この時の様子は映像に記録されている)。ケネディは後年、この時の様子について、「私のボディーガードがその小柄な先生に立ち向かっていったところ、まるで蜘蛛がピンで張り付けられたように、苦もなく取り押さえられた。(……)と回顧録「世界訪問旅行」に記している。
 ある時、弟子に「合気道で一番強い技はなんですか?」と聞かれた塩田は、「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と答えたという。

 その塩田の先生が植芝盛平だった。18歳の頃、塩田は植芝が営む植芝道場に見学に行った。

 その時期の塩田は武道の腕前を上げ慢心を見せ始めており、植芝と門下生の稽古も内心「インチキじゃないか」と思いながら眺めていたという。そこへ植芝自ら「そこの方、やりませんか」と声をかけ、1対1の稽古をしないかと誘ってきた。塩田はその申し出を受けて事実上の立ち合いに臨み、植芝へいきなり前蹴りを放った。すると一瞬で壁まで投げ飛ばされ、驚嘆した塩田は即日入門を決意。植芝の門下生となった。

 内田の合気道は優れた伝統に繋がっているらしい。
 本書の第IV章が「武道家としての坂本龍馬」で、司馬遼太郎との絡みで龍馬を論じていてこれが一番面白かった。
 司馬は剣客たちを数多く書いている。千葉周作を描いた『北斗の人』、土方歳三を描いた『燃えよ剣』、宮本武蔵を描いた『真説宮本武蔵』、清河八郎を描いた『奇妙なり八郎』など、しかし司馬は彼らの剣術修行に対して「過剰なまでの無関心」を示していると内田は書く。「司馬の主人公たちである剣客は、例外なしに、いきなり天才として登場する」。内田は修行によって人は変わると信じているが、司馬はそのことをあまり信じていないのではないか、と。
 内田は司馬のその態度について好意的な推測をする。戦争中の軍隊の極めて非合理だった体験から、合理的なものへの過剰な思い入れが「非科学的稽古法に対するつよい懐疑を生み出したのではないか」と。
 司馬遼太郎の史観については、加藤周一も「英雄史観」だと批判していた。


「合気道の達人」(2007年1月1日)

 

修業論 (光文社新書)

修業論 (光文社新書)