横浜トリエンナーレの三渓園での内藤礼の展示は見事だった。三渓園に移築された農家の古い苫屋、狭い畳敷きの部屋に電熱器が置かれ、その上に絹糸が垂れ下がっている。電熱器から立ち上る上昇気流のために絹糸がふわりふわりと揺れている。無人の古い室内に漂う微かな何かの気配。この三渓園の内藤のインスタレーションは成功していた。
あるいは東京都現代美術館の展示室内に設置された矩形の小さな小屋。室内の両側の壁に造られた手すりはわずかな傾斜を与えられている。蛇口から流れる水に揺らめくビンの中の薄い布。ガラス窓を挟んで置かれた水が入れられた2つのガラス瓶の水位はわずかに異なっている。
神奈川県立近代美術館の個展では、中庭の吹き抜けから垂れ下がったリボンが風に舞っている。あるいは壁の割れ目に挟まれたコイン、手すりに置かれた水の入ったガラス瓶。
ギャラリー小柳の展示では薄いピンク色がかすかに残るドローイングが100万円で何枚も売れていた。内藤が何度も何度も塗っては消し塗っては消したその痕跡だという。
内藤は一貫して「けはい」を追求している。そしてそのコンセプトの実現において成功している。遠く侘び、寂びに通じるような微かな気配。微かな主張。日本的な美意識だろう。
それはドイツで制作している塩田千春を思い起こさせる。同じインスタレーションでも塩田は内藤とは全く逆だ。黒い糸でがんじがらめにされた部屋、その部屋の奥のベッドやピアノ、積み上げられた東ドイツの家屋で使われていた窓枠。平和ボケした日常に突きつけられた苦しいまでの閉塞感。塩田のインスタレーションは強いメッセージを持っている。
塩田と比べられた時、内藤の作品の限界が露呈される。内藤の作品は建畠晢のいう「日本のインスタレーションはお花畑」という範疇には属さない。しかし、私小説とかマイナーポエットとかの世界とそんなに隔たっているわけではないだろう。そう言う意味でまぎれもなくある種の典型的な日本の作家と言いうるのだ。