長島有里枝『背中の記憶』を再読する

 長島有里枝『背中の記憶』(講談社文庫)を読む。6年前に読んで圧倒されたことを、先日長島有里枝展を見てブログに紹介して思い出した。昨年文庫化されていた。
 再読して改めて圧倒された。13篇のエッセイが並んでいる。長島の子供の頃を描いたものばかりだ。「背中の記憶」は古本屋で見たワイエスの絵「クリスチーナの世界」の女性の背中が祖母を思い出させたことから綴られている。ほかに母、父、保育園時代、叔父、弟、初恋、親戚、そして最後にまた祖母が語られる。そんな作者の個人的な関係者のことばかりが語られているのに、この緊張感は何だろう。ときにミステリを読んでいる気分にもなる。
 一篇一遍は長くはない。しかし導入から展開まで舌を巻くほどの巧さだ。文章に隙間がない。名文と言っていいだろう。エッセイだと書いたが、短篇小説だと言っても良い。これはまぎれもなく文学だ。
 なぜ写真家がこんな名文を書くことができたのだろう。経歴を見ると武蔵野美術大学でデザインを学び、その後アメリカの大学院で写真を学んでいる。どこにも文章を学んだ形跡がない。
 それで思い出すことがある。名文を書く3人の画家がいる。野見山暁治池田満寿夫堀越千秋だ。3人に共通するのが海外で何年か過ごしていること。野見山と池田が異口同音に、海外で暮らしていたときに相手の話すことは問題なく聞き取れたのに、彼らの言葉で反論するのが難しかったということだ。日本語で腹の中で反論していたという。おそらくそのことが3人の日本語を鍛えたのだろう。論理的な優れた日本語を書いた加藤周一も長くドイツやフランス、カナダに暮らしていた。長島がアメリカに留学していたことが彼女の日本語を鍛えたのではないだろうか。もちろん幼い頃からの言葉への感覚や感受性も優れたものがあったのだろうが。
 単行本が出たあと三島由紀夫賞候補になったが受賞しなかったとある。本書が小説ではないとされたためかもしれないし、描かれている世界が家族などの小さな世界と思われたためかもしれない。確かに小さな世界しか描かれていない。しかし、宝石は小さいけれども誰もそれを貶すことはない。『背中の記憶』は解説の角田光代も書くように「名作であると思う」。


背中の記憶 (講談社文庫)

背中の記憶 (講談社文庫)