司馬遼太郎『この国のかたち 六』を読む

 司馬遼太郎『この国のかたち 六』(文春文庫)を読む。司馬が『文藝春秋』の巻頭言として連載していたものだが、「歴史のなかの海軍」を書いていて、その5回目を書いたところで亡くなってしまう。この優れた論考は未完で中断してしまった。

 「歴史のなかの海軍」は日本の海軍の歴史を幕末の勝海舟の私塾から語っている。坂本龍馬は勝の下で学び、のち長崎で海援隊を起こす。

 もともと海軍はヨーロッパで商船隊の護衛として生まれた。海賊から商船隊を守るためだった。インド貿易をイスラムから奪うためにポルトガル海軍はイスラムの連合軍と闘って敵に壊滅的な打撃を与えた。スペインは新大陸から銀などの貴金属を輸送して利益を得ていた。イギリスが新大陸との貿易を狙ってスペインと争いになる。イギリスのドレーク船長はスペイン商船隊を攻撃する海賊だった。スペイン王はイギリスの海賊を攻撃すべく無敵艦隊を編成した。ところがこれがイギリス艦隊に惨敗してしまった。

 日本は自国を守るために海軍を育成した。明治初期の海軍は一人薩摩の山本権兵衛が作った。日本海軍は日清戦争で清国の海軍を圧倒した。その10年後日露戦争が始まり、やはり山本権兵衛の作戦で日本が勝利した。

 日本はロシアと対戦する目的で海軍を整備した。もともと防衛用で、侵略用でも植民地保持用でもなかった。司馬は書く。「明治のひ弱な国力で、この一戦のために国力を越えた大海軍を、もたざるをえなかった。問題は、それほどの規模の海軍を、その後も維持したことである」。「ふつう大海軍は広大な植民地をもつ国が必要としたものだ」と。

 ワシントンの軍縮会議で、日本は対米妥協のにおいを残して妥結した。ときの首相は浜口雄幸で、このため右翼に狙撃され亡くなった。

 「歴史のなかの海軍」はここで終わっている。

 「旅の効用」で日本は「世界でもめずらしい大衆社会を現出させてしまった」と書いている。

 

 (……)自分が属する国が、さまざまな歴史的要因の作動によって世界でもめずらしい大衆社会を現出させてしまったことに、大げさにいえば世界史的な感動もおぼえている。

 といって、この大衆社会の正体がわかっているわけでもない。ただ、正体を構成する無数の要素のなかに、未開時代からひきずっている感情もあるらしい、と気づいている。たとえば、仏教や陰陽五行説などに仮託したさまざまな迷信あるいは現世利益宗教の氾濫、また手相、四柱推命、星座占いなどの流行などは、戦前にはなかった。まして文明度の高かった江戸時代にはわずかしかなかった。この大衆社会にあっては、未開返りの要素も濃いのではないか。

 

 「声明と木遣りと演歌」の項で、『胡蝶の夢』を書くとき、司馬は神田明神下の遊里へ取材に行った。

 

 明神下はいまはさびれている。しかし芸者の歴史としては、東京でももっとも古く、幕末には、講武所芸者などとよばれて格の高さを誇ったものであった。友人をさそってそこで一夕飲んだが、その後きくと、その小さなやかたも、時代の波というか、立ちゆかなくなって廃業したという。ともかくその夕、その席に、老若ふたりの芸者がきた。

 べつに何の注文もせずにいると、若いほうが演歌が自慢で二、三うたった。さすがにうまいものだと感心したが、しかし内心、東京の芸者はそれしかできなくなっているのかと、失望したりした。酒を十分過ごし、そろそろ立とうかとおもったころ、不意に、木遣りをやりましょう、といって、ながながとうたった。じつにみごとなものだった。

 きくと、祖父かなにかが鳶の頭だったという。東京の彼女のうまれたあたりでは、鳶の頭が死んだとき、若い者たちが青竹を組んだ担架のようなものに死者を寝かせ、それをかついで、木遣りをうたいながら世話になった町内を練りあるくのだという。そのときの木遣りです、と彼女はあとでいった。

 

 司馬遼太郎『この国のかたち』はこの6巻で終わってしまった。とても残念だ。私は司馬のエッセイが好きだったのに。