司馬遼太郎の「モンゴル紀行」を読みなおす

 朝日新聞の特派員メモが内モンゴル自治区林望の「通わぬ情 切ない笑顔」だった(6月7日)。

 政府への抗議デモが広がった中国内モンゴル自治区で、切ない笑顔に会った。当局が取材に神経をとがらせる中で会ってくれたので、名前も仕事も書けないのがもどかしい。その人は、ただ、モンゴル族の文化を守りたいと願っているだけなのに。
 丸い顔に埋まった細い目が、ずっと笑っていた。部屋は資料で足の踏み場もないほど。「モンゴル語で本を出すんです。書ける人が少なくなりましたから」。とつとつと夢を語る彼が、一瞬、表情を曇らせたのは子どもの話題になった時だ。
 「人生で一番の失敗は子どもにモンゴル語を教えなかったことです」。漢族と同じ学校で育った長男は、広州の企業に就職し、最近、漢族の女性と結婚したという。
 「私のしていることが彼には理解できない。もう親子の情は切れました」。重い言葉から、彼の無念も、時代の波に乗ろうとしない不器用な父にいらだつ息子の姿も想像できた。モンゴル族の置かれた現実の一端を見た気がした。(後略)

 これを読んで、昔読んだ司馬遼太郎の「街道をゆく 5 モンゴル紀行」を読みなおした。ほぼ30年ぶりだった。久しぶりに読書する喜びを味わった。司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズが好きで、文庫本が出るたびに買って読んでいた。いまでも司馬の代表作は小説ではなく「街道〜」だと思っている。当時から、「街道をゆく」シリーズを読んだことがない人は幸せだと言ってきた。これから読む楽しみが残っているからと。
 この「モンゴル紀行」は特に良かった。司馬は大阪外語大学でモンゴル語を専攻していたのだ。若い頃憧れていたモンゴルへ行く、その喜びが伝わってくる。通訳をしてくれたチェベックマさんとの交流もとてもいい。別れる時、彼女は司馬の奥さんにお母さんの形見のトルコ石のペンダントを贈ってくれる。そのことで、彼女の気持ちも想像できる。後日司馬はチェベックマさんを日本へ招待したはずだ。
 司馬の厳しい歴史認識もさらりと書かれている、2.26事件の青年将校たちが持ち上げた荒木貞夫について、

 昭和史に出てくる人物のなかで、これほど人間としてつまらない人物もめずらしい。
 うらなりのヘチマのように印象希薄な顔をしていて、両眼の存在も蟻が二ひきとまった程度にかぼそく、口もとに至っては、どうにもならぬほど貧相なのだが、しかし顔はうまれつきであるために仕方がないにしても、かれ自身、よほど自分の顔にやる瀬ない思いがしていたのか、鼻の下に長大な八字ひげをはやしてみせ、それでもってやっと形をつけていた。そのあたりのインチキ臭さが、荒木の身辺にも言動にも生涯つきまとっていたもので、こういう程度の人物を、昭和初年の皇道派青年将校たちは大人物と思ったのか、クーデターが成功したあかつきにはクーデター内閣の総理大臣に推戴しようと考えていた。もっともかれらが荒木を傑物だと思っていたというより、荒木をかつげば、かれは若い者に対して何事でも唯々諾々だから国家改革に諸事都合がいいと思っていたのだろうか。
 まったく、変な男であった。若者誑(た)らしという言葉があるとすれば、荒木はその機微を悪達者に心得た男だった。かれが陸軍中将で軍部の中の皇道派の親玉だったとき、かれと志を同じくする22、3歳の少、中尉たちが酔っぱらってかれの家をたずね、玄関まで出てきた荒木をみて、「オイ、荒木」と呼びすてにしたという。この話は、当時の軍部の下剋上気分を伝える上で格好な挿話とされているが、しかしそれを受けた荒木の応答のほうが、はるかに気味が悪い。かれは破顔一笑し、「若いモンは元気がええのう」といった。

 司馬はモンゴル語を学んだ。同じくモンゴル語を学んだ田中克彦の著書「草原と革命」を何度か引用し、モンゴルの詩人の詩を紹介している。またモンゴルと日本の政治的関係に触れ、両国にとって不幸だったノモンハン事件についても言及している。それについては、田中克彦ノモンハン戦争」(岩波新書)をぜひ読んでほしい。
 もう一度書くと、「街道をゆく」を読んでない人は幸せだ。これから初めて読むという楽しみが残っているのだから。
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田中克彦「ノモンハン戦争」(岩波新書)(2009年6月30日)

街道をゆく 5 モンゴル紀行 (朝日文庫)

街道をゆく 5 モンゴル紀行 (朝日文庫)