司馬遼太郎『この国のかたち一』を読む

 久しぶり、20数年ぶりに司馬遼太郎『この国のかたち一』(文春文庫)を読む。1986年から1987年の2年間『文藝春秋』に連載した巻頭言をまとめたもの。結局この連載は10年以上続いたので評判が良かったのだろう。今回読み直してみて改めて司馬の魅力に取りつかれた。今まであまり司馬の小説は読んでこなかったが、『街道をゆく』などのエッセイは素晴らしく、『街道~』などは亡くなるまで書き続けた全43巻を2回通読したくらいだ。
 司馬は日露戦争後から終戦までの日本を厳しく批判する。日露戦争の勝利のあと、参謀本部が暴走し始め「統帥権」などという怪物を押し立て、太平洋戦争まで突き進んでいく。司馬はそれ以前の日本もそれ以後の日本も高く評価しているのに、この40年間が狂っていたとする。
 司馬は『統帥綱領・統帥参考』という古書について語る。原本は敗戦のときに一切焼却されて、この世には存在しないとされていた。奇跡的に残ったものを昭和37年に復刻した。
 戦時中特定の将校だけが閲覧できたものだった。中に参謀本部憲法の枠外にあると書かれている。統帥権は超法規的なのだと、議会(国会)に責任を負わないと。「われわれは天皇のスタッフだから憲法上の責任なんかないんだとする」と司馬が書いている。さらに戦時や国家事変の場合には統帥機関・参謀本部が国民を統治することができる、と。司馬が繰り返して書いている。「昭和10年以後の統帥機関によって、明治人が苦労してつくった近代国家は扼殺されたといっていい。このときに死んだといっていい」と。
 さて、今日の社会について、

 いまの社会の特性を列挙すると、行政管理の精度は高いが平面的な統一性。また文化の均一性。さらにはひとびとが共有する価値意識の単純化。たとえば、国を挙げて受験に熱中するという単純化へのおろかしさ。価値の多様状況こそ独創性のある思考や社会の活性を生むと思われるのに、逆の均一性への方向にのみ走りつづけているというばかばかしさ。これが、戦後社会が到達した光景というなら、日本はやがて衰弱するのではないか。

 ついで明治維新における土佐藩の役割を語るなかで、土佐には敬語が発達しなかったと書く。土佐人には「南海道」というものの気質が濃密だったと書き、「南海道」は7世紀末、七道の一つとして制定された地域で、紀州和歌山県)と淡路と四国を指す、と。

 土俗として平等意識がつよく、そのため過剰な敬語が発達しなかった(紀州方言にいたっては敬語がない)などの共通点がみられるが、後世、その気風が、摩耗せずに濃密に残ったのが、土佐だったといえる。

 私の田舎も敬語が発達していない。小学校のとき担任の宮島先生が花を指して、この名前が分かるかと生徒たちに訊いた。われわれは誰もその名を知らなかったので「知らん」と答えた。先生はそうだと言った。ラン科の「シラン」だった。子どもたちが「知らん」と答えるのを予測して訊いたのだった。決して「知りません」とは答えなくて。
 そんな子供時代を送ったためか、現代の敬語過多の状況が落ち着かない。敬語は必要最小限にすべきだと思っている。過剰な敬語は論理的な表現と相性が悪いと思う。とくにテレビで普通の人にインタビューしたとき過剰な敬語が返ってくる。おそらく敬語の使い方を間違えたくないとの思いから必要以上に敬語表現を取り入れてしまうのではないか。敬語使用に関する自信がないのだろう。もっと省いて良いのです。(父さん、えっらそうにと娘が言う)。まあ、いいではないか、私も70歳を超えた爺さんだ。60歳の船頭さんだって船を漕ぐときは櫓が撓るのだから。(←何が言いたい?)
 20数年ぶりに本書を読み直したと書いたが、『この国のかたち』は6巻まで出ている。2巻以降はまだ読んでないと思うので、それらも楽しみだ。

 

この国のかたち 一 (文春文庫)

この国のかたち 一 (文春文庫)