田中克彦『従軍慰安婦と靖国神社』(KADOKAWA)を読む。田中はユニークな言語学者で、常識にとらわれない独自の意見を持っている。
私は従軍慰安婦について触れるのが億劫でこの話題にはあまり近づかなかった。細部がどうであれ、戦時中とはいえ若い娘たちが兵隊たちの性の相手をさせられていたというのがむごい話だと思うのだ。彼女たちが無理やり連行されたとか、だまされて連れていかれたとか、お金のために自分から志願したとか、それらは二義的な問題にすぎない。むかし親父から聞いた話では、兵隊たちは列を作って順番を待っていたという。彼女たちは売春婦にすぎないという意見も聞いたことがある。売春婦だったらおとしめても良いのだろうか。
田中はドイツに留学していた折り、日本からやってきた偉い先生に乞われてアムステルダムの飾り窓に案内したことがあった。飾り窓と慰安婦の決定的なちがいは、前者が自由営業なのに対して、後者は拘束され不自由で強制された状況での営業活動だという。飾り窓では一人一人のおねえさんが堂々として、基本的には客を選ぶ自由すら持っている。田中は書く。「オトコとオンナが、真に喜びを持って出会えるのは、自由があってからこそ」で、「だいじなことは、話ができることだと思う」と。
従軍慰安婦が日本独特の制度で、なぜ外国にはなかったのかと田中は問う。それは、日本の兵隊たちは貧農の息子たちで、軍隊に入って初めて牛肉の缶詰の美味を知り、慰安婦制度によってオンナをあてがってもらった。戦前の軍事社会は、上の言うことを素直に聞いて盲従するひたすら忠良な兵士を必要とした。つまりオトコとして自立しない人間を作ってしまった。これは国民教育の欠陥を反映していて恥だと言う。このような文化で育ったオトコは、オンナとうまく話し、相手を自らのココロの中に引き込む技能を全く欠いている。だから慰安婦をあてがってもらわねばならない状態に置かれるはめになる。
つぎに韓国で建てられている慰安婦像について触れている。この像は戦争の悲劇を一般化して後世に伝えるというのではなく、日本という特定の敵に向けて建てられたことによって、哀悼という心の問題から外れて、政治化したために、人の心をうつ力が弱められてしまった。慰安婦像を建てた人たちの心にやどる底なしの憎しみとうらみを感じる。憎しみは人のココロだけでなくカラダもむしばむ。憎しみは憎しみを抱く人を自立させることはできない。
建てられた慰安婦像は撤去されることはないだろう。田中は、慰安婦像を建てた目的が、日本人への憎悪を永久化することにあるならば、日本人は、謝罪と鎮魂のためにこの像を拝むことによってそれにこたえた方がいい、と言う。
靖国神社について、田中は書く。
靖国神社は、たぶん戦争で親しい人たちを失った人たちのかけがえのないよりどころとなっている。むろん、靖国神社は戦犯をまつった、「けがらわしい施設だ」という、特別に勉強した知識人たちのキャンペーンはある。また靖国神社は、戦争のために設けられたという、歴史家たちによる、靖国神社の来歴の説明がある。
しかしそんな「知的な」解説よりも、人々のココロの中にやどっている「通俗の心情」の方がはるかに強力なのである。知識人とは、ときにココロの中で思っていることにすなおにしたがわず、あえて抵抗を試み、逆の面から考えるという無理をやれる、特権に恵まれた人たちのことである。
靖国問題とは、外国からあれこれ言われるという点を除けば、この「知識人・学者による知的な宣伝」と「通俗人の心情」との間の葛藤の問題であるように思う。
東条英機が戦犯なのは戦争で負けたからだという。負けたことが犯罪になる。勝った国の指導者は糾弾されない。と言いながら、田中は付録「対話篇・ある日の靖国神社境内で」の中で、東条英機と架空対話している。
あなたは真珠湾を不意打ち攻撃したりして敵からうらまれている。ぼく(田中)もけしからん、ゆるせないと思っている。ほんとうに世が世なら、いまの世には決していないようなすばらしい若者たちを、特攻機に乗せてむざむざ殺してしまった。だから、あんたをほんとうに裁きたいのはアメリカじゃなくて、我々日本人なんです。あなたは日本の国をとりかえしのつかない運命におとしいれてしまった。
あんたがはじめた戦争が負けたおかげで、1875年に日本領となった千島列島は、全部ソ連にとられてしまった。その千島は、もともと樺太をロシアに譲ることによって日本領になったものです。榎本武揚さんの大英断によってきまったことです。
本書には本筋に関係ない寄り道が多い。モンゴル人が鼻がいいというエピソードもおもしろかった。ある時、田中が一橋大学から国立の駅へ向っていた。すると駅から降りてこっちへ歩いてきた、内モンゴルからの留学生に出あった。いきなりかれはやっぱりねと言った。かれによると、改札を出たところで田中の匂いをかぎつけて田中がやってくることを知ったという。70mはあろうかという離れた距離で。
田中の本はいつもおもしろい。
- 作者: 田中克彦
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川マガジンズ
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