『田中克彦自伝』を読む

 『田中克彦自伝』(平凡社)を読む。田中はモンゴル語が専門の言語学者。私の最も好きな言語学者で、田中の本は手に入る限り読んできたつもりだ。モンゴル語が専門ということで、言語学者としては中心には位置していない。中心はやはり英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語あたりだろう。しかしモンゴル語のような周縁言語からは世界が見える、以前そのようなブログを書いたことがある。
 中心にあれば自分たちだけを見ていれば済む。それが周縁にあっては、周縁とともに中心を見なければならない。周縁からは世界が見えると言った所以だ。そのことは20年ほど前にパソコンの世界を調べていて分かった。当時日本の主力だったNEC富士通エプソンなどを見ていると自分たちだけにしか関心がなかった。そしてそれで済んでいた。ところが周縁機器メーカーは周縁も見て中心も見なければならなかった。広く世界が分かっていたのは周縁機器メーカーだった。
 田中克彦ともう一人千野栄一が好きだった。千野栄一チェコ語の専門家で、やはり周縁に位置する言語学者だ。2人とも言語学に限らず広い分野で発言していた。
 田中克彦自伝は、自伝にありがちな堅苦しさは微塵もなく、読みながら声を出して笑ってしまった。通勤の電車のなかでさえも。田中が書く。最初の記憶は3、4歳のときだった。背中に負われていた祖母から、「あんた、どこから生まれてきたか知っとるか」と聞かれた。「知らん」と答えると、それはなあ、おばあちゃんのこの背中から生まれたんだぞ、と言った。ありえないと思われたが、祖母は近くの桑の木の根元あたりのせみの抜け殻を指した。せみの抜け殻の背中の真ん中には縦に裂け目が入っていた。この説明は実証的で、うむを言わさぬ説というのは説得力あった。ぼくの人生はそこから始まったとある。
 靖国神社をめぐる中国や韓国の反発に対しては、日本の神社は必ずしも立派な人だけがまつられているものではなく、時には悪いやつだってまつられていることがある。

 ぼくはこんなことで、ことを荒立てなくてすむように、政治家はひかえ目にすればいいのに、わざわざ8月15日めざして、これ見よとばかりに一斉にお参りするというのも、また「心の行い」としては正しくないと思う。不幸な戦争に果てた人をいたむのなら、ひそかに夜陰にかくれて、こっそりお参りして、さめざめと涙を流した方がいいが、そんな、心のあたたかい政治家がいるとは思われない。

 田中の父は不用意な失敗をぽろりとやってしまう人だった。田中は時々父を困らせてやろうと、きわどい質問を思いついて試みることがあった。ちんちんは外にぶら下がってじゃまになることがある。神様は取り外しができるように人間の身体を作ればよかったのにと父に言った。父は、もし取り外してどこかに置き忘れ、見つからなかったらどうするんだいと答えて、田中はぐうの音も出なかった。
 モスクワで初めて知り合いになったモンゴルの学者がバダムハタンだった。ソ連崩壊の間際、バダムハタンはレストランでソ連のスパイと取っ組み合いをして勝った。もうソ連はつぶれるというので自信満々に渡り合ったのだ。最後にバダムハタンに会ったのは彼のアパートだった。

 田中さん、おれはつらいんだ。何回結婚しても女は出ていってしまう。娘も近くにいるが、おれとは住まない。外国から国際学会で人がやってきても、自分の家に呼べないんだ。だがあんたのために、おれはこうしてうどんを作るんだ。
 そう言って泣いている間じゅう、鼻みずと涙がぽろぽろと粉の上に落ちるのだから、味つけは全く必要なかった。そして、粉まみれになったエプロンとチョッキを指して、これはママが作ってくれたんだよ、ママが、と言ってなおも鼻みずと涙は粉の上にふりかかって、いっそう味を濃くするばかりだった。(中略)
 それでかれの作った肉うどんを食べながら、かれの人生観を聞かされた。あらゆる人生はドラマだ。ドラマは必ず幕がおりる。おれの人生も間もなく終わる。研究をやめて故郷で羊飼いをやる。友人のところへ行って、そのカミさんが生んだ子の一人はおれの子だ。いい友だちだから、ちゃんと育ててくれた……と言うのだが、どこまでがほんとかわからないけれども、ぼくは全部ほんとだと思う。モンゴルでは、そんなのは特別変わった話ではない。

 開高健の『夏の闇』に登場する佐々木千世子にはボン大学の研究室で会った。彼女は『ようこそ!ヤポンカ』という本を書いていた。ヤポンカとはチェコ語で日本女、日本娘を意味する。ボンで彼女はハルトード家に居候していた。ハルトードの奥さんは日本人の洋子さんで、佐々木は田中の後釜に入ったのだった。洋子さんによると、千世子は毎夜違った色のパンティーを着てハルトードさんの書斎に入っていっては刺戟を与えたという。当時彼女は30から31歳だった。

 居候はそんなに長く続かず、しばらくしてから大学の家族用ゲストハウスに出ていった。この宿舎に、ベトナムからの取材旅行から帰ってきた開高健がころがりこんで、千世さんと二人で、あられもない愛欲の生活をいとなむありさまは、かれの小説『夏の闇』にくわしく描かれている。

 田中の『夏の闇』に対する評価はとてもひどい。

 ぼくは、この小説は俗っぽくてほとんど無内容のくだらない作品だと思う。なぜ俗っぽいか。当時としては稀だった、外国で給費をもらって、博士論文に励むという女を主人公として、その女がかたことのドイツ語で手に入れてくる飲み物や食べ物のことを、まるで通のように引き取って語り、イナカッペ日本人としては比類のないしゃれた生活のように見せびらかして書いているにすぎないからである。この流れは『何となく、クリスタル』などにも引きつがれる商品カタログまがいの、通俗知識の見せびらかしにすぎない。(中略)
 前掲の新聞記事によると、司馬遼太郎は、開高健への弔辞で、「『夏の闇』一作を書くだけで、天が開高健に与えた才能への返礼は十分以上ではないかと思われた」と述べたそうである。(中略)
 文庫本につけられたC・M・ニコルという人の解説も、劣らずひどい、いいかげんなものだ。いわく、「この解説を書くにあたって、私は本書を4回、読みかえした」。本当かい? 「これ迄に私が読んだ日本の小説で、最もすぐれたふたつの作品のうち、その一つが本書だということ、ここで私の言いたいのはこれに尽きる」。――本気かい。日本の小説ってそんなにつまらないものかい、ニコル殿。

 田中によると、佐々木千世子の肖像画をブブノワが石版画に描いていて、それは町田市の国際版画美術館にあり、行けば見られるはずだと。
 田中は東京外語大学に9年間勤めたあと、岡山大学に移る。運転免許証の住所の書き換えのために岡山警察署へ出頭した。受付に20歳を出たばかりの婦人警官が現れたのでその旨を告げた。彼女は免許証を見ると、やおら、こう言った。「かわいそうに、東京でなんぞ悪いことでもしんさったん? 東京にはおられんような」と。
 その後、岡山大学から一橋大学に移る。一橋大学に在籍中、1年間フィンランドへ留学する。一橋大学を定年で辞めたあと中京大学へ就職した。しかし中京大学へ移ってからわずらわしいことが起こったと書くが、それらの詳細については、ここで述べるのはさしひかえたいと書かれて終わっている。
 面白いエピソードばかり拾った。ここには言語学のことや、政治的なこと、あの学生運動の時代のことなども書かれている。腹蔵のない人で、嫌いな学者の名前もフルネームで書いている。金田一春彦に嫌われた話とか、前述の千野栄一と嫌いあっていたこととか、隠すことがない。
 そして「あとがき」で、4、5年たったら、ふたたびこの自伝の執筆に立ちもどり、今回書けなかったことを書きつづけたいと願っていると結んでいる。ぜひその続編も読んでみたい。