鈴木孝夫・田中克彦『【対論】言語学が輝いていた時代』を読む

 鈴木孝夫田中克彦『【対論】言語学が輝いていた時代』(岩波書店)を読む。鈴木は慶応大学名誉教授で優れた言語学者。田中は鈴木より8歳年下でモンゴル語専攻のこれまた優れた言語学者だ。その二人の対談が【対論】と題されている。単なる対談ではないというこれは出版社の自負か。その題名とおりの優れた内容だった。
 あとがきで、田中が出版は岩波書店でと提案すると、鈴木が「だいじょうぶかなあ、あなたはいいかも知れないが、私はあんな左がかったところではねえ――とあきれたご返事だ」と紹介しているように、鈴木は保守派で田中はマルクス主義を学んだ左翼だ。ところがこの二人の対論がきわめて刺激的で有益なのだ。対談なのに、ソシュールチョムスキーへの鋭い批判が飛び交う。わくわくするような学術的対談になっている。

田中  アメリカの言語学が、まったく新しい学問として日本に登場できたのは、アメリカの占領政策と深い関係があるのです。その占領政策は何かというと、日本語をローマ字書きにして、国語イデオロギーを解体しようとしたことです。

田中  ぼくは戦争にまけたからアメリカが大嫌いで、根が反米。そのため人はぼくをスターリニストだとか言う。たしかにソ連言語学だの、マルキシズムに親しんでいるけれども、でも、ぼくが単純なイデオロギーに説得されないですんだのは、アメリ言語学をやったからなのです。アメリ言語学というのは、あらゆるプレジュディス、それからあらゆる予備知識、哲学上の前提ね、これを全部排除した。(中略)ぼくはアンチアメリカンだけど、アメリカの言語学はすばらしいなと思い、そのおかげでマルクス主義の観念論に陥らなくてすんだのです。

田中  レーニンは大ドイツかぶれ。エンゲルスはものすごい文明主義者で、少数民族を彼ほどバカにした人間はいないですよ。
鈴木  つまり、いずれはなくなる、抹殺すべきゴミだ、クズだというのね。
田中  早く滅びたほうがいいというね。しかし、これも理由は十分にあるのですね。チョムスキーがそれなのですね。チョムスキーは社会言語学で扱う階層の言語とか黒人の言語だとか、そんなことをやって何になるんだという。つまり、そういう実証研究は言語の表面を扱うだけであって、デカルト以来の合理主義の学問の屋台骨は絶対にぐらつかない。だからチョムスキーはそんながらくたの散らばった現場には現れない。

田中  エスペラント運動でとても面白い役割を果たしたのは、ロシアから来たエロシェンコという盲目の詩人です。新宿中村屋に行くとエロシェンコ肖像画がありますよ。彼がエスペラントを持ってきて、ずいぶんいろいろな人が習ったんです。エロシェンコは神近市子を好きになって、結婚するつもりだったらしい。神近市子というのは唇の厚い派手な顔で、アナーキスト大杉栄を刺したなかなか元気のいい女ですよ。で、口の悪い人は言っていたらしい。もしエロシェンコに目が見えたらあんなふうにはならなかっただろうとね。

 田中さん、ちょっと口が悪い。吉田喜重の映画『エロス+虐殺』では神近市子の役を楠侑子が、伊藤野枝の役を岡田茉莉子が演じていた。

鈴木  国立国語研究所に関係する人にローマ字主義者が多かったんですよ。これはどうしてかというと、そもそも国立国語研究所というのが、日本が戦争で敗けたときに、アメリカの占領軍(米国対日教育使節団)が日本語を表音文字にするために必要な科学的、言語学的データを集める国立の研究所がぜひ必要だという勧告を出したため、それを受けてできたのが日本の国立国語研究所だった。だから国研というのはそもそも当初から日本語をローマ字化するためのデータを集めるというのが主目的だったのです。

鈴木  私の見るところ、世界で抽象概念を供給できた言語は4つしかない。一つはギリシア語・ラテン語です。ギリシア・ローマがヨーロッパのすべての言語の抽象語、とくに学術語の供給源になっている。それからサンスクリット。南アジアの言語というのはタイ語にしても何でも、みんなどこかサンスクリットの要素とか崩れを持っていて、それが知的言語の骨格になっているわけね。それからアラビア語のおかげで中近東の言語は非常にしっかりとした骨格があって、感性の表現もできる。そして東アジアは、韓国にしてもベトナム、日本にしても、古代中国の漢字によって抽象概念を表現できた。この古代中国、古代ギリシアラテン語サンスクリットアラビア語以外に、抽象概念の骨格を供給し得た言語というのは、私の知る限りない。

鈴木  あなた(田中)は本当にいろんなことを知っていますね。

 鈴木が感心するのは、田中が周辺言語であるモンゴル語言語学者だからだ。周辺からは世界が見えるのだ。

田中  言語は出来上がった作品ではなくエネルギーであり、エネルギーというのは、絶えずつくりつつあるものである。したがって、言語には完成というものがなく、絶え間ない生成の過程にある、というのがフンボルトの考えなのです。このエネルゲイアチョムスキーが使ったんですよ。生成文法の「生成」とはエネルゲイアのつもりらしい。しかしチョムスキーの使い方はずれているしちょっとずるい。チョムスキーの言語にはじつは生成も発展もない。変化すらないのだから。

田中  ……この深層構造というものに問題があるんですね。(チョムスキーの)「深層構造は人類の言語すべてにおいて普遍的だ」という、これが曲者なんですよ。つまり、そうするとこれは限りなく論理に近づいていく。だけれども、なぜ言語学が成立し得るか、なぜ言語学という独特の領域が必要かというと、言語は論理ではないからなのです。言語が論理と一致してしまったら言語学はいらないし、もう成り立たない。
鈴木  その通り。つまり、人間が死んでもあり続ける世界、つまり人間が出る前の何億年も昔からあった世界、人間と本質的に無関係に流れている物事の理屈が論理である。ところが人間というものが出てきて、人間が作り出した独特の世界は、やはり人間独自のものであって、無色透明の人間抜きの自然科学的な素材に還元できるものではないと私は思う。

 でもときどき大御所鈴木先生はエッチなことをおっしゃる。

鈴木  ……戦後、「春の小川はサラサラ流る」というのを、文語は子どもに教えていないから「行くよ」と、ポルノみたいな日本語に直せとかいって、いじったでしょう。

 いやもう本当におもしろい読書だった。鈴木孝夫の著書も読んでみたくなった。



対論 言語学が輝いていた時代

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