田中克彦『ことばは国家を超える』を読む

 田中克彦『ことばは国家を超える』(ちくま新書)を読む。田中はモンゴル語が専門の言語学者で、広く言語学全般、民族学社会学にも造詣が深い。私の最も好きな言語学者で、私は田中の著書を20冊近く読んでいるファンなのだ。クレオール語やモンゴルの歴史、チョムスキー批判、スターリン言語学ノモンハン戦争、いろいろ教わった。

 本書の副題は「日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義」とあり、わくわくするような内容が語られる。

 ウラル・アルタイ語族とは、朝鮮語トルコ語フィンランド語、ハンガリー語モンゴル語などで、「これらの言語は、文の構造ばかりか表現方法、つまりものの感じ方までもが共通している。このことから、言語を軸に連帯をはかろうとする運動、ツラン主義が19世紀にハンガリーで現われた」(本書の扉より)。日本語もここに含まれる。

 田中は批判に当たって容赦ない。R.A.ミラー著『日本語とアルタイ語』(大修館書店)について、

 

 もしかして、監修にあたった西田龍雄氏も4人の訳者の誰も、新文法学派が19世紀の青年文法学派だったとは気づいていないのかもしれない。私は、このように、偉大な先生からだいじなことを学ばなかった弟子たちを心から軽蔑しないではいられないのである。それに、全くそのことに気が付いていない編集者もよくない。

 

 印欧語比較言語学が生み出した「音韻法則」を田中は批判する。各言語の基礎語彙の共通起源「祖語」があれば同一語族に属するという考え方、音韻論を批判する。田中は、単語が似ていることを根拠にして、それらの単語が仮定される共通の形からどのように分れたかを調べる比較言語学の音韻論を批判する。そして、その言語全体としての特徴を一つのタイプ(型)としてとらえる考え方、これを類型論と言って、これを主張する。そこからウラル・アルタイ語族(言語同盟)の考え方が出てくる。

 言語学者大野晋も批判される。日本語はドラヴィダ語と共通すると主張した学者だ。大野の著書にはその説の提唱者、発明者のことに触れることは一言もなく、まるで全部が自分の発明のように話が進められる。それを一種「エディター(編集者)気質」だと言う。

 

 この編集者的な著作は最近ずっと増えてきた。もちろん集積される材料は、自ら、外国語の原典から集めたオリジナルな資料ではなく、たいていは日本語に翻訳された材料ばかりである。いかに多くの著作が、自らの著述といよりも編集によって成り立っているかは今日しばしば見かけるとおりである。500頁でも600頁でもこえる気の遠くなるような著作がキカイのおかげであっという間に書けてしまうからであろう。読んでみると、まるで百科事典のように、知識を集めた物知り本である。

 

 この辺り、「知の巨人」立花隆にも共通するのではないか。立花は優れた編集者だったと思うが。マスコミが冠をつけた形容詞がいけないのだ。

 田中克彦はどれを読んでも面白い。もっといっぱい書いてくれたら嬉しいのに。