田中克彦『名前と人間』を読む

 田中克彦『名前と人間』(岩波新書)を読む。もう21年前に出版されている。おそらく出版されてすぐ読んだはずだから21年ぶりの再読だけど全然記憶がなかった。しかし地味な題名で損をしていると思う。内容はとても面白いのに。
 田中は本書で固有名詞について書いている。まえがきで、固有名詞で埋め尽くされた本を「不潔な学問」と言っている。しかし、本書は固有名詞について分析的に書かれている書なのだ。
 固有名詞は意味を持たない。対して普通名詞は意味を持っている。それで言語学は意味を持たない固有名詞を言語学の対象としない。しかしながら、意味を持たない固有名詞も意味が透けてみえる。語源がわかれば意味が発生する。

 ここで近代言語学は、語源に対してどういう態度をとってきたかと言えば、一面では語源解釈に否定的態度をとり、研究の対象から除外してきた。そのばあいに、2種類の語源意識を区別しておかねばならない。一つは歴史的語源、もう一つは共時的語源である。近代言語学が、少なくとも、前者を評価するということは、そのたてまえ上あり得ないのである。なぜか、それは、共時意識に反するからである。「体系」、「構造」という共時態を考えているときに、体系を組みたてる一つ一つの要素――私たちのばあい名前、言いかえれば単語――の来歴を問うことは、体系のぶちこわし以外の何ものでもない。ソシュールも言っているように、「過去を抹殺しないかぎり話手の意識のなかに入ることはできない。歴史の介入は、かれの判断を狂わすだけである」からだ。
 しかし、ある言語とある言語とが同じ起源にさかのぼるものだ、共通にさかのぼる、より古い言語から枝分かれしたものだと言うためには、その中の、共通と思われる要素――このばあいは単語――を比較してみなければならない。
 たとえば、ドイツ語のティーア(Tier―動物)は、英語のディア(deer―鹿)と同源だというふうに言うばあいである。(中略)
 このように同じ起源の(と仮定される)語の意味がずれているばあいに、語源の研究は不可欠となる。言語の歴史的比較研究は、帰するところ語源研究だと言っても極論ではないだろう。こうして行われる研究は「科学的」で、「歴史的」な語源学と呼ばれる。そしてこうした語源研究は、言語の過去にさかのぼるための必要不可欠の手続きであることは疑いない。
 ところがソシュールは、「これでは話し手の共時意識の中に入って行けない」と言ってしりぞけたのであるから、学問にとっていかにたいへんなことであったかがわかるであろう。

 こんな引用をすると、難しい内容に思われるかもしれないが、豊富なエピソードが並べられていて、楽しい読書でもあるのだ。知人のMさんが住んでいる恋が窪の地名についても紹介されている。スイスにキュスナハト=接吻の夜という名の町がある。

 「接吻の夜」ほどではないにしても、それとはややおもむきの似た地名が、東京の国分寺市にある。「恋が窪」というのがそれで、大学の分校に行くときは、いつもこの名前の標識のある交叉点を通るので、そういう人は慣れっこになってしまっているだろうが、はじめてこの地名を見る人は、いったい何があったんだろうかと思い、伝説の一つも作ってみたくなるだろう。また、もし思いを寄せる女性から、こういうところ書きをしたためた手紙でももらえば、胸がしめつけられる思いをするかもしれない。

 しかし、柳田国男が紀行文で、恋が窪の「起りは単純に水を意味し、もしくは泥が深いのでコヒヂであったかも知れぬのを、誰かが恋といふ文字を宛てたばかりに……」と書いている。
 さらにまた田中はこんなことも書く。

……たとえば(北海道の)帯広が示そうとしたものは、もと「オ・ペレペレケ・プ」(女陰・割れて割れている・者)、つまり、この川が「何条にも分れて十勝川に注いでいる」さまを表したことばだという(山田秀三説)。私はこの語源説が正しいか否かを知るために、「萱野茂アイヌ語辞典」(三省堂)にあたってみた。そこには、この「オペ……」はなかったが、「オペチクチク」(クは小さいク)という項目があり、その意味は、「陰部が濡れる:性衝動に駆られて」、のだそうである。読みとばしてしまうには惜しい知識なので、ここに記しておいた。

 田中がこのことを「惜しい知識だ」と面白がっているのが面白い。
 いつもながら田中の著書は面白く有益だ。本書は題名で大きな損をしているだろう。題名とは裏腹にきわめて楽しい読書であることを保証する。


名前と人間 (岩波新書)

名前と人間 (岩波新書)