原武史『「昭和天皇実録」を読む』を読んで

 原武史『「昭和天皇実録」を読む』(岩波新書)を読む。原は政治学者で、『大正天皇』(朝日文庫)、『昭和天皇』(岩波新書)、そして最近では『皇后考』(講談社)の著書がある。昨年「昭和天皇実録」が公開された。その内容を原が分析している。
 「昭和天皇実録」は、公式の記録だから天皇に不利なことは書きにくいだろう。原は記述をよく読み込み、また同時代の記録を参照して隠された真実に迫っていく。
 母親である大正天皇の后、貞明皇后との齟齬・確執も指摘される。貞明皇后は、『皇后考』によれば戦後、自らを神功皇后に擬して昭和天皇が退位したあと摂政に就くことを望んでいたらしい。
 太平洋戦争の開戦にあたって、天皇は宣戦の詔書を読んでいる。その翌日宮中三殿御告文「宣戦につき親告の儀」を奏している。詔書では「一切ノ障礙ヲ破砕スル」と抽象的なのに、御告文では、「海に陸に空に射向ふ敵等を速に伐平らげ」という言葉を使っている。はっきいり「敵」と言っている。
 昭和20年には東京も大規模な空襲でほとんど焼き払われている。しかし4月になっても天皇は一撃講和論に固執し続けている。大きな反撃を与えたのち講和を結ぶという方策だ。それでなければ軍隊を抑えられない。沖縄での「逆上陸」作戦を提案もしている。米軍の上陸前に先手を打って上陸し、迎え撃ってはどうかという。この時でも戦争を止めようとする気配は感じられないと原は書く。
 天皇は対ソ交渉による停戦を期待していた。しかし皇太后は強硬で、陸軍の主張するように本土決戦をしてでも戦い抜くことを主張していた。しかし、8月6日と9日に原爆が落とされ、ソ連が参戦してくるという事態が生じ、10日未明にポツダム宣言受諾の「聖断」が下された。
 「実録」では、戦後、退位について考えたことなどないかのような印象を受ける。しかし木下道雄の『側近日記』には、昭和21年に天皇が退位について悩んでいたことが書かれている。しかも皇太后までが天皇は退位すべきだと考えていた。皇太后天皇が退位した場合、皇太子が幼いので自分が摂政になることを考えていたらしい。
 また神道からカトリックへの改宗も検討されていた。神道には宗教としての資格がなく、国民に信仰心が足りなかったからこういう戦争になったのだと天皇が述べていたという。「国体」には天皇を統治の主体とする概念はあっても、教義や世界観を中核とする概念はなかったので、たとえ天皇が改宗し、カトリックの教義を信仰するようになったとしても、国体そのものが変わることはないと原は言う。
 「実録」には今城誼子という女官が出てくる。源氏名を浜菊といい、皇太后節子(貞明皇后)についていた女官だ。皇太后が亡くなったあとは香淳皇后に出仕する。天皇が高齢になったとき、入江相政侍従長が健康のために祭祀を減らそうとするのに今城が反対する。彼女は、祭祀を軽んじると大変なことになるという貞明皇后の影響を受けている。それに香淳皇后が感化されていく。入江はその日記で彼女のことを「魔女」と呼んでいる。
 大まかに紹介したが、本当はもっとずっとか面白い内容だった。一読をお勧めしたい。