野見山曉冶『とこしえのお嬢さん』を読む

 野見山曉冶『とこしえのお嬢さん』(平凡社)を読む。雑誌に連載したエッセイらしい。すべて4〜5ページの短いものだが、そんな短文でありながら深く面白いのは、まさに野見山さんの文章の「芸」なのだろう。名文家であると改めて感嘆した。
 副題が「記憶のなかの人」とあり、過去に接した19人に、奥さんで博多のクラブ「みつばち」のママだった武富京子さんへの弔辞を収録している。それに2月のニューオータニ美術館の個展での講演会の質疑応答を加えている。
 短いものばかりなのに、本質的なことをズバッと言っている。
 里見勝蔵は日本にフォービスムを導入した画家だ。野見山はパリで里見と懇意になり、ゴッホが住んでいたオーヴェル・シュル・オワーズまで連れて行ってもらったりした。里見は佐伯祐三ヴラマンクに紹介もしている。

 しかしフォービスムの直伝、ヴラマンクから、いつまでたっても里見勝蔵は乳離れ出来ないでいるようだ。時おり部屋を訪ねると、かつての輝く黄色が、褪せてただの絵具にしか見えない。フォービスム(野獣派)は人間の熱い血で彩られていて、見る者をわし掴みにする。しかし燃えつきると、画面に漂う人間の哀しさも消える。闘士はとっくにその役目を終っていたのかもしれない。

 苗字の書かれない純子という女性の思い出も印象的だ。札幌でやった絵画講習会でモデルが倒れた。受講生の女の子が「あたしを描いて」とぴしりとポーズをとった。その後も、純子が誘ってきて、またふっと逃げたりする。上野の自由美術の会合で彼女の先生をもてあそんだりもした。その先生は純子のことを牝犬と呼んだ。

 次の夜、牝犬は、暗いアトリエの中で、これがそんなにいいことなの、みんな、夢中になってることなの、と悶えながら、満たされない欲望への不審感に苛立った。男はみんな騙すのね。今年中に必ず仕返しをしてやる、必ず。
 冷めた顔になり、純子は二度と現れなかった。

 その純子は阿寒湖の雪の中で死んでいた。そのことを書いたのが渡辺淳一『阿寒に果つ』だった。この本は「妊娠小説家」渡辺淳一で唯一読んだ本だ。渡辺は純子と高校の同級生だった。同級生なんか簡単に手玉に取れただろう。野見山さんと渡辺淳一がこの子を接点につながっていたのか。(妊娠小説とは斎藤美奈子が言った言葉。男にとって都合が悪い妊娠を描いた小説)。
 菅井汲にパリで車の運転の面白さを教えたのも野見山さんだった。菅井はポルシェの最速車カレラでドイツのアウトバーンを飛ばし、事故って首の骨を折った。後遺症に苦しみながら制作を続けた。

……日本に戻ってきたとき、ぼくはホテルで会ったが、ぎこちない歩き方だ。首は胴体の上に乗っかったきり動かない。よく生きていたものだ。
 再生もここまでなのか。手を伸ばせる精一杯の、小さい下図を作って画学生に渡し、いつものスガイの絵の大きさに拡大させる。おれの絵、色分けだけや。そのまま塗ればええんや。
 しかし自分が筆を握って、広い場面に向わないかぎり、新しい発想は生れない。知らずに自分の絵の模倣になってゆくのを、周囲の反応と同時にスガイは悟った。

 川上宗薫の本の装幀もいくつも頼まれた。『官能の女』『悦楽の傷み』『不倫の巡回』等々。ソークンは女好きだった。

 ソークンが亡くなったのは、いつ頃だったか、女好きだよなあ、とコミちゃん(義弟の田中小実昌)が沁々(しみじみ)ぼやく。俺だって女好きだとぼくが言ったら、じゃあ兄貴は80の婆さんとやるか、と開き直った。な、そうだろ、女好きってのは、ザラにゃいないよ。

 わが友のI君と知人のKさんは70の女性としているという。二人とも60代半ばだ。じゃあ、彼らはちょい女好きなのか。
 本書への不満は126ページしかないこと。500ページとは言わないが、せめて倍のページ数があればいいのに。