室生犀星『蜜のあわれ/われはうたえどもやぶれかぶれ』を読んで

 室生犀星蜜のあわれ/われはうたえどもやぶれかぶれ』(講談社文芸文庫)を読む。ちょっと変わった小説集。標題の2篇の中篇と、短篇「陶古の女人」「火の魚」に、詩「老いたるえびのうた」の全部で5篇が収められている。
 「蜜のあわれ」は本書のほぼ半分を占めている。3歳子の金魚と老いた小説家との会話で全編がほぼ成り立っている。登場人物は小説家が昔付き合った女の幽霊、それに金魚屋なども加わるが、ほとんどが金魚と小説家の会話のみ、情景描写もない。金魚ではあるが、若い娘の姿をしている。娘は20歳くらいの年齢だという。普通の人には気づかれないが、小説家と幽霊と金魚屋は彼女が金魚だと分かっている。
 変わった小説だが、全体に老人と娘との交流で、娘=金魚は日常的な買い物など、老人の世話を焼いている。しかし金魚であることは繰り返し書かれ、奇妙な小説というほかはない。キスまでしているが、「あたいのは冷たいけれど、のめってしていいでしょう」などと言わせている。小説家も「君の口も人間の口も、その大きさからは大したちがいはないね、こりこりしていて妙なキスだね」と返している。
 二人の会話で老人の性が語られる。

「おじさまはどうして、そんなに年中女おんなって、女がお好きなの。」
「女のきらいな男なんてものは、世界に一人もいはしないよ、女がきらいだという男に会ったことがない。」
「だっておじさまのような、お年になっても、まだ、そんなに女が好きだなんていうのは、少し異常じゃないかしら。」
「人間は七十になっても、生きているあいだ、性慾も、感覚も豊富にあるもんなんだよ、それを正直に言い現わすか、匿しているかの違いがあるだけだ、もっとも、性器というものはつかわないと、しまいには、つかい物にならない悲劇に出会すけれど、だから生きたかったら、つかわなければならないんだ、何よりそれが恐ろしいんだ、おじさんもね、七十くらいのジジイを少年の時分に見ていて、あんな奴、もう半分くたばってやがると、蹴飛ばしてやりたいような気になってみていたがね、それがさ、七十になってみると、人間のみずみずしさに至っては、まるで驚いて自分を見直すくらいになっているんだ。」(中略)
「じゃ、おじさまは若い人と、まだ寝てみたいの、そういう機会があったら何でもなさいます?」
「するさ。」
「あきれた。」

 川端康成が書いた『眠れる美女』や『片腕』を思い出した。老人の性を書いているのだ。室生はそれを直接に表現する方法を採らなかった。金魚である若い娘との交流という形で書いている。
 「われはうたえどもやぶれかぶれ」は老作家が、おしっこが出ないで苦悩する話だ。夜中に起きてトイレへ行くが、長時間座っていてもおしっこは出ない。蒲団へ戻るとすぐまた行きたくなる。別室で寝ているお手伝いの若い娘たちを起こさないよう静かに起きるが、彼女たちも目を覚ましてしまう。ついに入院することになって、尿道カテーテルまで入れられる。老作家はわがままで、痛がったり愚痴ったりばかりしている。
 コバルト照射も受けているのはガンの治療だろうか。コバルト放射室では8分30秒の間背中をむき出しにして、うつむきになる姿勢がたまらなかったと書く。その時間が長くて「私はおんなのことをあれこれ頭にうかべたが、うかべたおんなは考えの中で迅いすがたで直ぐ次へと移行して、あわてて考え終わったおんなを取り戻そうとしている間に、次のおんなの人に及ばねばならなかった。しかもその人はわずかな間に次のおんなにかわってゆくという予想外の早さであった」。
 私が若いころ大腸憩室炎の手術を受けたとき、初め盲腸の手術だから15分で終わるわよと看護婦さんに言われていたのに30分くらい経っても終わらなかった。あとどのくらいですかと訊くと、あと30分よという答えだった。30分なら1,800秒、じゃあと数を2,000数えはじめた。数え終わってまだですかと訊くと、あと30分よと言われてがっくりしてしまった。女のことなんか少しも考えが及ばなかった。
 野見山曉治『四百字のデッサン』に、野見山が女のことで苦しんでいる森有礼を指して女好きなんですかねと言うところがあった。すると椎名其二が、自分の性欲をもって他人をおしはかってはいけないと野見山をたしなめた。性欲ほど人それぞれに違うものはない。キミや私は女と喋っているだけで消化できる体質のようだが、森くんはそうではなく、体がいうことをきかないのではないかな。キミはそれをフシダラだというふうに思ってはいけない。
 どうやら室生犀星と私は体質が違うらしい。
 久保忠夫の解説を読んだら、森茉莉のエッセイを引用していた。

 室生犀星は或日、八重洲口の大丸百貨店の時計売場で働いていた可憐な少女を見て店主に会い、自分の家に寄越して貰いたいと掛け合った。(中略)その少女は犀星の家に来た。犀星はその少女を〈月の少女〉と言い、傍に置いて、机の上を拭いたり、原稿用紙を揃えたり、そういう用をさせていた。(中略)彼の〈月の少女〉は私の目で見て確実に、唯、彼の机の上を拭いたり、ペンを揃えたりする、そういう用事をする人として、仕えていた、と信じている。

 すると、やっぱり金魚は〈月の少女〉に対する犀星の隠された欲望を韜晦して小説化したものなのだろう。
 とても奇妙な小説だった。