『青木繁・坂本繁二郎と梅野三代展』を読む。監修=芝野敬通で、現在東御市梅野記念絵画館で開かれている同名の企画展の図録である。
この梅野記念絵画館は、1985年に京橋のビルの一角に「美術研究 藝林」を開いた梅野隆が、その後自身のコレクション430点を寄贈して1998年長野県北御牧村に村立「梅野記念絵画館・ふれあい館」を開館したことに始まる。梅野は初代館長に就任し、2004年市町村合併により美術館は東御市立となる。2010年梅野隆は館長職を退任し、翌年亡くなる。享年84歳。
この梅野隆の父親が梅野満雄で、1879年(明治12年)に福岡県久留米市で生まれ、やはり久留米市に生まれた3歳年下の青木繁、坂本繁二郎と親しく交わることとなる。青木は東京美術学校に入学し、梅野満雄は早稲田大学の前身東京専門学校に入学して青木の生活を助ける。梅野家は八女の大地主だった。その後徴兵検査のため帰郷した青木に同行して坂本も上京する。坂本は青木と写生旅行を共にしたり同居したりして太平洋画会研究所に学ぶ。
青木は22歳で「海の幸」を描き、25歳で「わだつみのいろこの宮」を発表するも、父死去のため久留米に帰り、家族と衝突して放浪生活に入り、福岡の病院で28歳で亡くなる。
青木の死後、梅野満雄は青木繁遺作展のために奔走し、のちに遺族から遺作30点を買い取る。そのため大金を使い満雄の父親から準禁治産者とされてしまう。
坂本も梅野とともに青木の遺作展開催のため奔走する。坂本は39歳で渡欧しパリで1年間学ぶ。帰国後数年して坂本は梅野が提供する梅野の自宅隣地にアトリエを建てる。坂本は梅野満雄と亡くなるまで深い交友関係を結んだ。
梅野満雄は青木の遺作を多数所有していたが、火災などを恐れ、昭和14―15年頃青樹社画廊を通じて作品の売り立てを行った。また梅野は大地主だったが戦後の農地解放で多くの田畑を失った。
1948年坂本繁二郎は久留米のケシケシ山に青木の歌碑を建てるが、なぜか梅野はこの計画から外されていた。その真相は明らかにされていない。
梅野隆の息子梅野亮は若い時から絵画の才能を認められ、とくに中村正義から美大には行かないようアドバイスされ、成人を記念して詩画集を刊行し渡仏、パリでは小杉小二郎らと学んだ。帰国後個展を重ねるが、28歳ころに制作を中断し実業の世界に進む。30年のブランクの後制作を再開して現在に至っている。
青木繁・坂本繁二郎を支えた梅野満雄、その血を継いで美術研究、コレクションを充実させてやがて美術館を開いた梅野隆、その息子で画家となった梅野亮、この三代を顕彰する展覧会が開かれるのを機に「青木繁・坂本繁二郎と梅野三代展」が企画されている。実はその三代のほかにも、同館の2代目館長は梅野隆の娘婿の佐藤修であり、副館長が隆の娘佐藤雅子である。梅野三代5人の関りがこの美術館を支えていることになる。
本書の「梅野満雄・青木繁・坂本繁二郎の「三友の輪」を語る」座談会で、芝野敬通が坂本について野見山暁治と語ったエピソードが紹介されている。
芝野が野見山にこの展覧会のちらしを送ると野見山から手紙が来る。そこに「写真に出ている坂本繁二郎、なんとも好々爺ですが、おそろしい爺さんだった。私は今までこんな人を見たことがない。青木繁は是非とも逢いたい人だった。美術学校にある自画像を見てつくづくそう思います」とあった。それで芝野は野見山に電話して二つ質問をした。
一つは「おそろしい爺さん」とはどういう意味ですか、と聞くと、先ほど紹介した1952年の(野見山の)渡仏前のインタビューのために坂本の自宅に行ったときのことを話してくれました。〈巨匠の坂本繁二郎が玄関に正座して「野見山先生ですか。坂本です」と27、8歳の僕を迎えて言うのでビックリして、返す言葉もなくいると、「私の絵はどう思いますか」と尋ねてくるのです。「本当の油絵を描いていると思います。日本で一番尊敬している画家です」と僕、「どこをそう思いますか」「パリで描いた「帽子を持てる女」が好きです」、すると、「能面はどうですか」と聞かれる。「女のほうが好きです」「絵画は真・善・美で成り立っています。あの絵には美はあっても真と善がありません」〉そんな調子が続いて、野見山さんはだんだん自分が悪者にされていくようで、ここへ何しに来たんだろう、という気持ちになったそうです。「一筋縄ではいかない人だったなぁ」と呟かれたんです。もう一つ「芸大にある青木の自画像を見てどう思われたのですか」と尋ねると、「あんな赤い輪郭線の絵なんて初めてでね、本当に驚いて、こんな絵を描く人がいるのだ、どんな人なんだろう、と思いましたね」と答えて下さいました。
梅野家に伝わる文芸の才として、梅野満雄の短歌、梅野隆の句と歌、隆の姉妹の歌、梅野亮の歌などが載っている。いずれも佳句とはいいかねる。梅野隆は木雨と号して絵も描いているが趣味の域にとどまっている。
最後に些事ながら校正ミスの指摘を一つ。P.19の座談会での佐藤雅子の発言で、梅野満雄が坪内逍遥から贈られた扁額を大事に持っていたという件で、それが「深蔵虚如」となっているが、これは「深蔵如虚」の誤り。P.31にその扁額の写真が掲載されている。