井坂洋子『犀星の女ひと』(五柳書院)を読む。詩、小説、評論、随筆、俳句と多岐にわたって書いた作家を詩人の井坂が暖かく書いている。表紙の犀星の写真がいいが、新潮社の犀星担当の編集者だった谷田昌平によるもの。
犀星といえば、萩原朔太郎の親友だった。醜男で田舎っぽい犀星と医者の息子でハンサムで都会っ子ぽい朔太郎が、お互いの詩作を通じて若いころから終生親友だった。朔太郎の『月に吠える』は口語自由詩の嚆矢だし、犀星の『抒情小曲集』も小説『兄いもうと』も評判が良く後者は映画化もされた。
犀星は13歳までしか学校に通わず、血の繋がりがない兄が勤めていた裁判所に給仕として通っていたとき、句作の盛んな金沢という土地柄から俳句を始めた。それが犀星にとって学校教育に代わるものだったかもしれない、と井坂は書く。
無学な犀星少年の授業だった俳句――そこで犀星は句作するにあたっての構えや姿勢を教わったのではないか。犀星は詩や小説は無手勝流であり、自己流であったが、俳句に関しては基礎を習っている。
句にどことなく品があり、構えがゆったりしていて、長い日中を過ごしているような悠久な時の流れを感じる。それがたった一日のある時のことであり、生活時間の範疇を超えないにもかかわらず、これらの句は宇宙というか大きなものとの交信の中継地であるようなのだ。彼の句が佇んでいるのは、そこの一点だ。
秋待や径ゆきもどり日もすがら
あさがほや蔓に花なき秋どなり
縞ふかく朱(あけ)冴えかへる南瓜かな
固くなる目白の糞や冬近し
草古(ふ)りてぼろ着てねまるばつたかな
とくさまつすぐな冬のふかさよ
籠の虫なきがらとなり冬ざるる
水洟や仏具をみがくたなごころ
寒餅や埃しづめるひびの中
どの句もよいのだが、私は犀星の冬の句が好きだ。引用した中では終わり3句が特にいい。
犀星は西鶴と芭蕉を対比している。そして芭蕉の紀行文を「大したものではない」とはっきり断じていて、文章については西鶴に軍配を挙げているという。
井坂は最後に犀星最晩年の自画像を挙げている。亡くなった年である昭和37(1962)年、72歳のときの絶筆。「老いたるえびのうた」。
けふはえびのやうに悲しい
角やらひげやら
とげやら一杯生やしてゐるが
どれが悲しがつてゐるのか判らない。
ひげにたづねて見れば
おれではないといふ。
尖つたとげに聞いて見たら
わしでもないといふ。
それでは一體誰が悲しがつてゐるのか
誰に聞いてみても
さつぱり判らない。
生きてたたみを這うてゐるえせえび一疋。
からだぢゆうが悲しいのだ。
犀星は立派な伊勢海老をもじってえせ(似非)えびと、自分のことを嗤った。
犀星は醜男で女性に対するあこがれが強かった。晩年は離婚して家に戻った娘と、息子の連れ合いである女性、お手伝いさん2人、デパートの時計売り場で働いていた若い娘を名目は秘書として家に置いた。このように都合5人の女性に囲まれていたが、実はさらに秘密の愛人がいた。なんということだ! 仲間として相哀れんでいたのに。