細見綾子『細見綾子』を読む

 細見綾子『細見綾子』(春陽堂俳句文庫)を読む。細見は1907年(明治40年)生まれの俳人、第13蛇笏賞を受賞している。1997年に90歳で亡くなった。沢木欣一が創刊した「風」同人で、沢木と結婚後「風」編集発行人を務めた。ベテランの俳人だ。

 代表作の一つが「鶏頭を三尺離れもの思ふ」で金沢の尾山神社の句碑になっている。本書末尾に栗田靖が「わが師、わが結社」と題して細見について書いている。

……鶏頭は丹波の生家の土蔵の白壁の前に二、三本残っていたもので、鶏冠の盛んな実に見事なものであったという。

 この句の眼目は〈三尺離れもの思ふ〉である。綾子は『自註句集』で「鶏頭と自分との距離が三尺だと思った時、何もかもが急にはっきりするように感じた」とし、

「私はその鶏頭に歩み寄り、立ち止まって眺めた。鶏頭と自分との距離を三尺くらいだと思った。三尺は如何ともし難い距離だと思えたのである。それがその日の最上の鶏頭への距離であった。鶏頭への三尺の距離で私は色んな事を考えた」

とも記している。

 綾子の句をいくつか拾ってみる。

そら豆はまことに青き味したり

でで虫が桑で吹かるゝ秋の風

菜の花がしあわせそうに黄色して

桜咲きらんまんとしてさびしかる

高麗の里枝垂桜が紅潮す

 これらの客観写生句がどうもよく分からない。しかし綾子には象徴的な句もある。

冬薔薇日の金色を分かちくるゝ

冬薔薇紅く咲かんと黒みもつ

 俳句は短い文学だ。五七五の12音だけで深い思想を表現するのは難しい。短歌が本歌取りなどで短詩形にも関わらず豊かな内容を表現するように、俳句も象徴性を加味して内なるものを膨らませる必要があるのではないか。日常詠とか客観写生だけではつまらないと思う。先の「鶏頭」の句もさほど面白いとも思えない。

 同じく蛇笏賞俳人矢島渚男に「崩落の牡丹の蕊に紅残す」の句があるが、花弁が散った牡丹の花に雄しべ雌しべが残っていると写生しつつ、そこに紅色が残っていることを詠んで、おそらく初老の女性の色香を指摘しているのだろう。このような象徴性が句を豊かにするのではないか。

 まあ、俳句の素人の戯言だと聞き捨ててください。