古い写真を整理していたら24年前の野見山暁治さんを撮った写真がでてきた。1996年11月10日、練馬区立美術館で野見山暁治展が開かれたとき、会場で野見山さんが自分の絵について語るという日があった。その時撮ったもの。野見山人気は大変なもので会場が観客で埋まり、野見山さんが絵に近づかないでくださいと注意をしていた。学芸員が所蔵家から借りてきたものだから傷がついたりしたら学芸員の責任になってしまいますから、と。
この時野見山さん76歳、現在の私より4歳年上なだけだった。最後に質問はないかと言われて、私はマドモアゼル・セスネイを描いたデッサンは展示されているか聞いた。描いたけれど展示されてはいなかった。
マドモアゼル・セスネイは野見山暁治『遠ざかる景色』(筑摩書房)に紹介されている。
マドモアゼル・セスネイ。私は、この白髪の老嬢から週に2回か3回、フランス語を習う生徒だった。
(中略)
彼女はコンセル・バトアールでピアノを教わり、コルトーについて学んだようだが、人間は、だからといってその専門家にならなくてもよいのだな、と私は気づいた。
(中略)
そうだ、一度、セスネイさんを連れて、私がよく遊びにいっている日本人の老人のところへ行ったことがある。夜道だったが、マビヨン通りまでそう遠くはない。サン・シュルピスの教会の横をぬけるとすぐだ。老人は通りから階段づたいにおりていった中庭の突き当たりに住んでいる。その老日本人のことについては前々からいろんな話をしていたので、セスネイさんも会いたがっていた。
そのときの二人の会話はどうだっていい。セスネイさんもおそらく記憶にはないだろう。なにしろ上ずっていた。そして帰り道、彼女は、私を責めるのだ。お前はあのムッシウのことについて肝腎の説明を怠っていたと言う。どうして、どうしてボウ・ガルソン(いい男)だってことを言わなかったのか。
ドアを開いて出てきた老人の顔を見るなり、セスネイさんは女学生のような羞らいを見せ、きちんと化粧してこなかったことを悔いた。
(中略)
この家で私はひと冬をすごしたことがある。私の妻がシテ・ユニベルシテルの病院で亡くなったあと、あたたかい春がくるまでここに住むようにと彼女が言ってくれたのだ。(中略)
病室では涙を見せなかったセスネイさんが、自分の部屋に戻ってからは、赤く目をはらしていた。
可哀そうな子、マドモアゼルは、自分の膝に私をだきよせて涙をながした。愛欲をはなれて、こんなにしっかりと女に抱きついてよいものか。フランス女の腰や膝は、か細い私の涙をうけとめる、たしかな厚みがあった。なにかといえば、私はその厚みに傷心の体を埋めた。
もう生涯私は独りだ。そう呟いたとき、彼女は私の顔を両手でもちあげて、きっぱりと言った。何ということを、お前は生きているのだよ、お前の肉体はこうして生きているじゃないか。
野見山さんの描写力の確かさに感嘆する。セスネイさんに会わせた日本人の老人は椎名其二だろう。椎名其二については別のところに紹介しているが、それも素晴らしい。
※http://kuroneko-no-aru.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-13f8.html
こちらに椎名其二と並ぶ野見山陽子(最初の妻)の写真が載っている。