倉橋由美子『城の中の城』を読む

 倉橋由美子『城の中の城』(新潮文庫)を読む。30年近く前に買っていたのにやっと読んだ。すると、初めの方にこの辺の人間関係は『夢の浮橋』を読んでくれと書かれている。本書は『夢の浮橋』の続編らしい。その本も単行本で買ってあったのに、一度も読まないまま処分してしまった。そういえば『反悲劇』も単行本を買っていて読まないままに処分したのだった。『城の〜』を処分しなかったのはこれが文庫本だったからだろう。
 読み始めてすぐに長い間読まないで放ってあった理由を思い出した。読んでいて不快なのだ。本書はキリスト教批判が主たるテーマになっている。次いで夫婦間のスワッピングに関する感情の機微だろう。キリスト教に絡めてマルクス主義も批判されている。
 主人公の「山田桂子さん」(さん付けで呼ばれている)は大学教授夫人であり、父親は出版社の社長、彼女は美貌と高い知性と教養と家柄の良さを誇っている。友人知人たちも皆優れた知性を持っている。彼女には皮肉な性格以外何も欠点がない。夫が内緒で洗礼を受けてキリスト教に帰依したことに対して、徹底的に戦おうとしている。会話が宗教論争的になるが、桂子さんからの視点が主で、一方的にキリスト教が批判される。最後に夫がキリスト教を捨てることになる。
 桂子さんの家族も周囲の者たちも、利口で金持ちたちばかりだ。彼女たちは馬鹿で貧しい連中を相手にしない。というかそんな連中は影も見えないようだ。
 ちょっと吉本隆明の詩を思い出す。

えんじゆの並木道で 背をおさえつける
秋の陽なかで
少女はいつわたしとゆき遭うか
わたしには彼女たちがみえるのに 彼女たちには
きつとわたしがみえない
すべての明るいものは盲目とおなじに
世界をみることができない
なにか昏いものが傍をとおり過ぎるとき
彼女たちは過去の憎悪の記憶かとおもい
裏ぎられた生活かとおもう
けれど それは
わたしだ

 小説のテーマはちょっと晩年の谷崎と共通しているように見える。キリスト教のことではなく、スワッピング関連においてだ。家庭内の性的などろどろした感情を書きながら、谷崎に不快を感じることはなく、その文学の達成に感嘆するのに、倉橋の作品は作り物めいた突飛さとそして不快感を強く感じてしまう。倉橋が利口で金持ちの世界しか興味がないためだろう。いい気なもんだねという言葉を思い出す。
 本書を読み終わって、前編である『夢の浮橋』を読もうという気は起こらなかった。もう当分倉橋を読むことはないだろう。初期の作品は結構好きだったのだが。
 以前、倉橋と吉行淳之介を比較したことがあった。自意識=自己批判という屈折を持つ吉行に対して、倉橋は自己に対して無批判で肯定しかない。絶対的に肯定し自己陶酔に溺れる倉橋の作品を好んで読むことが難しいのだった。


吉行淳之介と倉橋由美子(2006年5月27日)


城の中の城 (新潮文庫)

城の中の城 (新潮文庫)