『田村画廊ノート』を読む


 山岸信郎『田村画廊ノート あるアホの一生』(竹内精美堂)を読む。山岸は30年以上にわたって田村画廊、真木画廊、駒井画廊、田村・真木画廊などを経営していた。1991年真木画廊を真木・田村画廊に名称変更し、その画廊を2001年に閉廊、2008年11月8日に心不全のため死去と略年譜に書かれている。79歳だった。構成と発行者が竹内博とあり、発行所も竹内精美堂とあるから、おそらく竹内博の会社なのだろう。書店には並ばないで、いくつかの画廊で売るという。私は銀座のStepsギャラリーで購入した。
 真木・田村画廊に始めて行ったのは1992年頃だと思う。それから閉廊するまでほとんどの展覧会を見ていただろう。クセの強そうな、それでいて穏やかな印象の山岸さんとはあまり話した記憶がない。その代わり店番のような山岸夫人と彼女がエサをやっている近所の野良猫のことをよく話した気がする。画廊を畳んでからの山岸さんには2度ほど会った。どちらも誰か作家のオープニングパーティの席だったが、最近は韓国の大学で美術史を教えていると言われていた。田村画廊〜真木・田村画廊は「もの派」の展示が多かったようだから、その辺について話すのは最適の人だっただろう。もう一度会ったとき、奥さんの具合が悪くなったので、介護のために韓国の大学を辞めて帰ってきたと言われた。あの猫を可愛がっていたおばさんが病気なのだ。閉廊したと聞いたときも猫たちのエサはどうなるんだろうと画廊のあった場所へ行ってみたが、もう猫たちの姿はなかった。
 神田駅を出て中央通りを南へ向かい、数百メートル行って井戸のあるビルの手前の路地を左に入る。50メートルほど先の右手、2段ばかりの階段を登った1階の倉庫のような空間が真木・田村画廊だった。正方形に近く広い画廊で、比較的年齢の高い作家たちの個展に使われていた印象がある。本書を編集した竹内博も毎年個展をしていたが、画廊の床から壁面、天井まで透明なセロテープを張り巡らせるインスタレーションを行っていた。私は閉廊するまでほぼ10年間通ったのだった。
 本書は2章に分かれていて、第一章はあちこちの雑誌などに発表した文章と武蔵野美術大学や韓国現代美術展などで行った講演録からなっている。それらが6割近くを占めている。第二章は「ノート・メモ 等」と題され、おそらく山岸のノートに書かれていたメモみたいなものを編集しているのだろう。第一章の文章は時事的なものが多く少しばかり山岸に接した者にとっては物足りない思いがする。第二章のメモに至っては、山岸が存命なら掲載を拒否したのではなかったか。公にするための書き付けではないと思う。
 山岸は1969年に田村画廊を開廊して2001年に真木・田村画廊を閉廊するまで、32年間現代美術の現場に立ち会ってきた人だ。その人だからこそ見てきた数々のエピソードがあるはずだ。どうしてそれらを記録してくれなかったのか。もしそうしていたら、日本の現代美術の黎明期の貴重な証言録になっていたはずだ。そして山岸ならそのことが可能だったろう。

(写真は森岡純撮影の山岸信郎)
 とまれ山岸信郎という優れたギャラリストがいたことの、本書は貴重な墓碑たるだろう。編者に望みたかったのは、本書を編集するにあたっての経緯や編集意図、そしてもう少し詳しい山岸の年譜を付けてほしかったことだ。しかしこのような本を出版してくれたことに対して竹内博に礼を言いたい。