丸谷才一『後鳥羽院 第二版』を読んで

 丸谷才一後鳥羽院 第二版』(ちくま学芸文庫)を読む。1973年に筑摩書房から「日本詩人選」の1冊として『後鳥羽院』が出され、それに3篇を付け加えて『後鳥羽院 第二版』が刊行され、今年文庫版が刊行された。評価の高い後鳥羽院論である。
 後鳥羽院は『新古今集』を勅撰した帝王であり天才歌人であった。同時代のもう一人の天才歌人定家とは主従であり才能を高く評価する者同士でもあったが、のちに訣別する。後鳥羽院鎌倉幕府に対し承久の乱を起こして敗れ、隠岐に流されてその地で没する。丸谷は後鳥羽院の伝記を記すではなく、院の歌をていねいにていねいに読み解いていく。
 後鳥羽院の歌は本歌どりという技法が重要になっている。また縁語、掛詞を多用して複雑で重層的な構造を作っている。この、もう素人には分かりにくくなった新古今の世界を、丸谷はていねいに分析してくれる。

  けふまでは雪ふる年の空ながら夕暮方はうち霞みつつ


後鳥羽院御集』正治2年8月御百首。また、『風雅和歌集』巻第8冬歌。
正治2年人々に百首召されけるついでに年の暮を」といふのが『風雅』の詞書である。
 いかにも『風雅』好みのさらりとした詠みぶりだが、それなりに仕掛けはあるし、しかもずいぶん手がこんでゐる。一つは「雪ふる年」が「雪降る」と「古年」にかけてあることで、これは歳末の雪景色に新春の気配を微妙に感じ取らせる工夫である。もう一つは三重の細工で、「夕暮方」が「夕暮」と年の「暮」のほかに「潟」を秘めてゐることである。この潟はどうしても難波潟でなければなるまい。第4句「空ながら」の「ながら」が長柄(ながら)の橋をほのめかしてゐるからだ。
 大晦日の夕方、さきほどまで降つてゐた雪はやんで、晴れわたり、難波潟には霞がたなびいてゐるといふ、いちはやく春を祝ふめでたい歌である。仔細に調べれば『新古今』的な藝を存分にほどこしてあるし、その効果もよくあがつてゐるのだが、表面それを感じさせずおつとりと歌ひあげるのは、後鳥羽院の得意とするところであつた。

 これは本書の中でも簡略な方なのだ。丸谷はじっくりていねいに、本歌や類似の歌を引いて、時に一首に何ページもかけて解説する。その深読みは見事なもので、ただ感嘆するしかない。
 湯川豊の解説によれば、「後鳥羽院と、院が精魂こめてつくりあげた『新古今』への評価は、丸谷氏が1973年に「第一版」にあたる『日本詩人選10 後鳥羽院』を書いたのを契機として、ようやく見直される流れに乗るのである」と。そうだったのか。いわば後鳥羽院は丸谷が再評価したようなものだったのか。
 ただ丸谷に従って後鳥羽院の歌をたどっていくと、究極の和歌の爛熟した姿、それこそ和歌のマニエリスムといった姿が浮かびあがってくる。すると、やはり丸谷の再評価する以前の後鳥羽院の占めた位置の方が妥当だったのではないかとも思えてくるのだ。
 歌人をその社会的存在として論じた吉本隆明の『源実朝』を読み直したくなった。
 本書には後鳥羽院を論じた折口信夫のことも詳しく紹介されている。折口は後鳥羽院に憧れ、また北原白秋の才能に強く引きつけられていた。

……彼(折口)にとつて戦後の日夜は、さながら後鳥羽院隠岐や白秋の(姦通罪で捕まった後転居した伊豆の)父島に似てゐたことだらう。かうして、待ち望んでゐた悲劇がつひに到来したとき、彼は何を書いたか。
 ただ嘆賞するしかない歌謡の傑作を書いた。それはいかにもこの個性にふさはしい小唄ぶりで、悲しい抒情にあふれてゐた。その詩は極めて私的な詠み口でありながら共同体を代表し、本格の構へなのに藝能の楽しさに輝いてゐる。軽みと遊び心には欠けるかもしれないが、明るさはたしかにある。末つ世の粋な風情はつひになく、何やら説諭めいた高飛車な趣のものだが、それにもかかはらず恋のあはれは身にしみる。これは後鳥羽院と白秋の小唄ぶりにあこがれつづけ、そしてそれをまねぶことは為し得なかつた詩人の、最後の到達点であつた。自在な音律は愛唱に価し、古代の言葉が現代の市井を写すのは奇跡めいてゐる。こんなに上代歌謡めいた節まはしで亡国の悲しみを歌ひ、民衆を励ました詩人はほかにゐなかつた。これだけのものを示されたとき、わたしはただ文学者の生涯の末に待つてゐたしあわせを祝福するしかない。1946年(昭和21年)の『やまと恋』のことである。

として、その詩が引用されている。ここまで絶賛されれば詩人として本望だろう。
 もう一つ、興味深いことが指摘されている。日本の母系家族制が15世紀の頃まで続き、その頃ようやく父系家族制になった。内藤湖南の言葉、「応仁の乱(1467ー77)以前の日本はまるで外国のようだ」を引いて、これは司馬遼太郎も同感の意を表しているという。

たしかに日本人の生活がわれわれの知つてゐる日本らしくなつたのはこの内乱以後のことで、木綿の栽培と普及、袴をつけない着流し、羽織、1日3食、味噌、醤油、砂糖、饅頭、羊羹、豆腐、納豆、それから天井も、部屋に畳を敷き詰めるのも、座敷に床の間と違ひ棚を設けるのも、このころにはじまつた。お茶と生花もこのころ。そして文学史的に大事なのは、衣食住の大変革と母系家族から父系家族への変化とが同時に起こつたこの時期に、勅撰和歌集が終つたといふことです。勅撰和歌集といふのは天皇が命令して編集させた和歌の詞華集で、これは10世紀から15世紀まで21もつづいた。(中略)この勅撰和歌集の系列が息絶えたのが母系家族が終つたときであつたのは意味深長である。これは、和歌が女人の好みに大きくよりかかる詩であつたことをあざやかに示すものでせう。

 さすが丸谷才一の教養は深く、教えられることが多い。作家としては二流の人ではなかったかと思うが、評論の世界では一流の人だったと思う。


後鳥羽院 (ちくま学芸文庫)

後鳥羽院 (ちくま学芸文庫)