金子光晴の詩「真珠湾」

 丸谷才一のエッセイ傑作選『腹を抱へる』(文春文庫)を読んでいたら、作家の梶山季之は詩人のゴシップを話すのが好きだったと書かれていた。金子光晴が亡くなったとき、丸谷はこの詩人の話を梶山としたことがなかったことを思い出した。金子と会ったのは二度で、雑誌の座談会のときだった。

 この座談会のときは迎への車がいつしよで、車中のんびりとエロ話を聞くことができた。それが昔の思ひ出話だけでなく、当今の見聞も至つて幅広く(さすがに実地のほうの話はなかつたけれど)、あるいはストリップ、あるいはゲイ・バーと博捜を極めてゐて、わたしは思はず、おれももうすこし頑張らなくちやいけないなと反省したことが忘れられない。(中略)
 さうさう、このとき聞いた大事な話がある。
 金子さんに『真珠湾』といふ詩がある。戦後すぐに刊行された詩集『落下傘』に収められてあるせいで、何となく戦争中、つまり真珠湾奇襲以後に書かれたやうに思ひがちだが、実はこの詩、昭和15年5月号の「中央公論」に発表されてゐる。つまり、真珠湾奇襲の1年半前にはもう書かれてゐたわけだ。かねがねそのことが疑問だつたので、
「あれは、アメリカと戦争がはじまれば、真珠湾が急所だと考へてお書きになつたものですか?」
 と訊ねたところ、金子さんはこともなげにいつた。
「だつて、あそこしかないでしよ」
 詩人のかういふ偉さの話だつて、梶山さんはやはり喜んだらうと思ふ。

 ではその「真珠湾」という詩はどんなものなのだろう。(旧漢字を新字体に変更)

   真珠湾


     一


湾(いりうみ)のあさい水底に
真珠母(あこやがひ)がひらく。


そのまばゆさは、
水の足うらをくぐり、
天ののどを擽る。
逃げまどふ旗魚たち。
かんざしをさした
美貌の島嶼(しまじま)。


十人の令嬢のまへに立たされたやうに、
早朝、僕のこゝろはずんで
そらと海にむかつて出発した。
すふ息はふかく
富貴のやうにかぎりなく、
吐く息はやはらかく
情愛のやうに涯(はてし)なく、


骨牌(かるた)のやうに翻る
鴎。


別墅。
郵便船。
目にうつるものは薔薇色に。


天使らのもてあそぶ
雲の巻貝ら
そらにならぶ。


水にちらぼふ光をひろひ、
思念は紡錘(つむ)のやうにゆききし
うとうととする。


あゝそこには、
すみわたる歓喜みちあふれ、
くちづけの恍惚に似て、
そらふかくしづむ神々の姿を
まぼろしにみる。


    二


目もあやな有頂天な風景をゆきすぎつつ、私のこゝろ
ふと、僕のこゝろにかげつてゆく翼のやうな「無意味」があつた。


雲の峯たちならぶ
毛なみ柔かな海上を走りつつ、
風とともに不興をやりすごすため、
僕は目をとぢた。無念無想になつて、


もう一度、母の胎内にもぐりこんで、ぬくぬくと寝たいとおもつたのだ。
だが、たちまち、くらやみのなかで草木までが咬みあふのをきき、
いのちあるものも、ないものもみな、ぶざまに、虫けらのやうに匍出すのをおぼえた。


平安の海は均衡を失つてなだれ、
舟足はたゆたひ、ゆく先が絶壁なしてきつて落され、
舟もろともにいまにも落込むかとこゝろは怖れまどうた。


波のこげるにほひ。
麦熟れ。
鍋や皿のぶつかる音。
魚でなまぐさい手。
鼻歌まじりの恥しらずなとりひきのなか、
裸の乳房、尿壺のぬらぬら。
いきねばならぬ奔騰の狂気のなかを、僕は
ちるはなびらのやうにもてあそばれた。


いまはしいくらがりの幕、
おづおづと僕はまぶたをあげる。
おゝ真珠湾よ。
髪かたち化粧のむづかしい天女らの
うぬぼれ鏡よ。
白痴かと疑ふ無垢の肌の
臍までうつすおどけ鏡。


むらがる裸女たちでまばゆい海。
瀧となつておちる光
ふたたび均整と正義と、遠近法の
ひたむきな虚妄の壮麗に立ちかへつたことの
絶望に似たなんといふふかい安堵。
また、なんといふしらじらしさ。

 以上、金子光晴「落下傘」の全文。難しくて何度も読まないと分からない。