『金子光晴詩集』を読む

 清岡卓行 編『金子光晴詩集』(岩波文庫)を読む。清岡があとがきで近代詩人として萩原朔太郎金子光晴を挙げている。重要な詩人とは知っていたが、今まで金子をまとめて読んだことがなかった。膨大な作品を残しているようで、22冊の詩集から124編ほどを選んでいる。中では詩集『鮫』が全文収録されていて、これが代表作なのだろう。いくつか面白い詩をを引く。

  老薔薇園


 うす絹の肌着はよごれ易い。ちよつと汗ばんでも、四五日ぬがずきつゞけただけでも、うす黄ろく染まり、くろく垢づく。
 桃色のヅロースや、レモン黄のシュミーズ、白の乳かくしなどが、そこらいつぱい、レビュウガールのたまり場でゞもあるようにぬぎちらしばらまいてある。
 絹のこまかい皺は、くつきりと影をおつて、年代で色が褪せてゐる。
 それをみてゐると、すぐそれを身につけてゐた娘共のあたたかい肌のぬくもりで又、ぬぎちらしたかつかうで、無邪気な、或ひは、みだらな性格が知れて、心がそゝられはするのだけど、それが一世紀も昔からさうしたまゝなのだと考へると、その放縦も怪談ものなのである。ポンパヅールの時代、マリー・アントワネットの時代、その頃らしい香りをかぐと、たちまち、その汚れものの山は、病的、末梢的、虚無的なものにみえてきて、そのうへにさす秋の陽の光りさへも、いたみ、悲しみ、いたいたしくひつつゝて、声も立てず互ひにひつそりとしずまりかへつてゐるようにおもへる。
 肌着とみえたものはじつは、薔薇だ。老いた薔薇の園である。
(後略)

 つぎは「洗面器」という詩の前書みたいな文章のみ抜き出した。

(僕は長年あひだ、洗面器といふうつはは、僕たちが顔や手を洗ふに湯、水を入れるものとばかり思つてゐた。ところが、爪哇人たちは、それに羊や、魚や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたへて、花咲く合歓木の木陰でお客を待つてゐるし、その同じ洗面器にまたがつて広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ、しやぼりしやぼりとさびしい音を立てて尿をする。)

 そういえば、私も屋台をやっていた若い頃、売り物のゆで卵を作るのに、50個くらい入るボールでゆでていたが、それが終ると同じボールに水をはって、下着と洗剤を投入して煮ることで洗濯の代わりにしていた。ときどき長い箸でかき混ぜながら。もう45年も昔のことだ。
 つぎに「もう一篇の詩」という作品。

恋人よ。
たうとう僕は
あなたのうんこになりました。


そして狭い糞壺のなかで
ほかのうんこといっしょに
蠅がうみつけた幼虫どもに
くすぐられてゐる。


あなたにのこりなく消化され、
あなたの滓(かす)になって
あなたからおし出されたことに
つゆほどの怨みもありません。


うきながら、しづみながら
あなたをみあげてよびかけても
恋人よ。あなたは、もはや
うんことなった僕に気づくよしなく
ぎい、ばたんと出ていってしまった。

 なかなか楽しい詩集だった。



金子光晴詩集 (岩波文庫)

金子光晴詩集 (岩波文庫)