國分功一郎『近代政治哲学』を読む

 國分功一郎『近代政治哲学』(ちくま新書)を読む。とても刺激的な読書だった。現在われわれが生きているこの政治体制は、近代の政治哲学が構想したものだと、本書カバーの袖の惹句は言う。「〈主権〉の概念が政治哲学の中心のおかれる中で、見落とされたのは何だったのか?」と。
 本書はフランスの政治学者ジャン・ボダンから始めて、ホッブススピノザジョン・ロックジャン=ジャック・ルソー、ヒューム、カントと、近代政治哲学の歴史をたどり、まさに現代におけるその問題点を提示している。
 ホッブスはその自然状態の理論によって近代的な政治哲学を打ち立てた。ロックは、立法権こそ国家の主権を構成する最高の権力であり、行政権は立法権に従属するものだとした。しかしこれは「まさしく建前であって、少しも現実には即していない」と國分は書く。「ロック的国家理論においても、現在の国家の実際においても、行政権は最高決定機関であるはずの立法府に並ぶ、事実上の強大な権力を有しており、主権の対外的主張の担い手であり、そして何より、法の執行過程において判断を下す事実上の決定機関である」。にも関わらず、ロックは最高権力は立法権にあると主張する。
 ルソーこそ近代政治哲学に一定の完成をもたらした。自然状態論、社会契約論、主権理論という近代政治哲学の3本の柱に整った姿を与え、今日多くの国で採用されているタイプの民主主義を基礎づけた。
 國分は最後に「結論に代えて――近代政治哲学における自然・主権・行政」で問題点をまとめている。

 いかなる権威もいかなる法も存在しない状態で人間はどうなるか? この問いに答えようとする中で、新しい概念が形成された。それが自然権の概念である。(中略)
 自然権とは、しかし、我々が通常思い描く「権利」とはずいぶんと異なるものである。それは許可や資格を与える上位機関が全く存在しない状態で見いだされる”権利”なのであって、端的に、何をしてもよいという自由の事実に他ならない。その意味で自然権は(中略)荒々しい何かである。野生動物のようなものだと言ってもよい。
 近代国家はこの野生動物を飼い慣らさねばならなかった。統治するとは、この荒々しいものを手なずけることだった。そのための手段として選ばれたのが立法であった。(中略)こうした統治をバックアップしたのが、主権の概念である。(中略)
 おそらく、このやり方はある程度の成功を収めた。自然権という名の野生動物は次第に飼い慣らされていった。それゆえであろう、政治哲学の舞台から、自然権や自然状態といった概念は姿を消していく。(中略)
 それに対し、主権概念の方は、そのまま変わらずに政治哲学の中心に身を置き続けた。(中略)基本的な内容には手を付けられぬまま、今日に到るまで継承され、「国民主権」や「人民主権」という形で今もなお積極的に利用されている。
(中略)
 今日、多くの国家は「国民主権」の考えに基づいて民主主義の体制を採用している。つまり、近代政治哲学の最初期に作られた主権という概念をその中心に据えている。さて、主権は立法による統治を目指したのだった。実際、民主主義体制において、主権者が主として関わるのは立法府、すなわち議会である。選挙を通じて議会に代議士を送り込むのが、民主主義体制における主権者の主な役割である。
(中略)
 主権は、立法を主な任務としている限りでは法の運用までは関われない。つまり行政の活動に関わることは難しい。にもかかわらず、そうした主権概念の欠点は、これまで十分に検討されてこなかった。統治が立法権を中心に据えて理解されてきたため、行政は単に決められたことを粛々と実行する執行機関と見なされ、その事実上の権限は低く見積もられてきた。
(中略)
 近代の政治哲学は、行政に対する鋭敏な感覚をもちつつも、やはりそこでは立法権中心主義とでも言うべき視座が支配的であった。それゆえに、主権を立法権として定義することの問題点は十分には考察されてこなかった。だが、実際の統治においては、行政が強大な権限を有している。
 ならば、主権はいかにして行政と関わりうるか、主権はいかにして執行権力をコントロールできるか、これが考察されねばならない。(後略)

 本書を読む前に同じ著者の『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)を読み始めて挫折していた。旧カミさんが面白いわよと勧めてくれたのだったが、難しくて5日間で40ページしか読めなかった。それで、リベンジのため本書を手に取ってのだったが、これはとてもおもしろく読めた。私に限らず近代政治哲学についてあまり触れることがないだろう。ぜひ手に取ってみてほしい。


ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

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