A. ジアール『エロティック・ジャポン』を読む


 以前読んだ成毛眞『面白い本』(岩波新書)に、アニエスジラール『エロティック・ジャポン』(河出書房新社)が面白いと勧められていた。

(本書は)フランス人女性ジャーナリストが書いた日本のエロティシズムの比較文化論である。外からの視点で客観的に見てはじめてわかることだが、日本人が普通だと思っているエロ文化は、じつは非常にユニークなのだ。
 第2章「恥の文化」では、日本のポルノは「恥こそが売れるのだ」として、日本人の恥じらいのフェティッシュについて詳述する。日本人の男性は、自信ありげにバストを突き出して挑発する西洋的で大胆な女性よりも、コトに及びながらも頬は紅潮させるような女性を好むという特殊な人種であることを、なんと日本のAVの監督すらも取材して力説する。さらに著者は、こうした羞恥の文化は、日本の伝統社会において「感情を表に出さない女性こそが、真の女性に値する」といった日本人特有の価値観によって作られたとし、江戸時代の書物『女大学』も引き合いに出して紐解いていく。
 筆者の力説する羞恥の文化については、賛否両論があるだろう。しかし、第10章の「セックス産業」では、外からの視点で見ると面白い産業だなとあらためて気づかされる。「「デリバリー・ヘルス」と呼ばれるものはコールガール・サービスを言う」、「「ヘルス」という名のマッサージサロン」、さらには「「ノーパンしゃぶしゃぶ」問題とは、アメリカのウォーターゲート事件の日本版だ」などと、時に笑いを誘いながらも、圧倒的な情報量で読ませる。

 本書で紹介されているのは、女子高生がはいた下着を売るブルセラショップ、切腹エロビデオ、高級ダッチワイフのラブドール、コスプレ、ふんどしとマッチョ、援助交際、大人のおもちゃ等々だ。
 また成毛が紹介している「セックス産業」では、ソープランド、デリバリーヘルス、キャバレー(二流のクラブ)、ピンクサロン、テレクラ(女子高生たちの売春)、ごっこプレイの「イメクラ」、ホストクラブ、露出狂たちのハプニング・バー、ストリップ劇場、(高級)クラブなどが詳しく語られている。
 しかし、日本の読者としてはほとんど既知のことばかりだし、誤解も多い。読んでいてあまり楽しくはなかった。江戸末期には男女混浴が普通だったことを紹介し、外人が通りかかると若い娘たちが風呂から裸で飛び出して、何も隠さず外人を見物していたという記述は、同じことをを書いている渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)の記載にはるかに及ばない。つまり記述の姿勢の違いだろう。
 本書中「セーラームーン」について書いている箇所で、私としては見過ごせないところがあった。

……また、この世では結ばれることのできなかった恋人たちが西から昇る月を詠っていたのは、月が阿弥陀西方浄土を表すからである。

 月が西から昇ることは日本でもフランスでもあり得ない。一応高校生の頃は天文クラブだったので。前にも、このブログで三島由紀夫の月の出に関する誤りを指摘したことがあった。それを再録すると、三島の短篇「孔雀」から、

 彼は待った。夜光時計を見て、夜半を夙(と)うにすぎたのを知った。ひろい遊園地には音が全く絶え、目の前には豆汽車の線路が星あかりに光っていた。
 空には雲がところどころにあいまいに凝(こご)っていたが、風はなく、山の端(は)がおぼめいてきて、赤らんだ満月が昇った。月はのぼるにつれて赤みを失い、光を強め、孔雀小舎の影はあざやかに延びた。

 三島はここで「夜半を夙うにすぎて(中略)山の端がおぼめいてきて、赤らんだ満月が昇った。」と書いている。満月(十五夜)は日没後しばらくして昇るのだ。それから徐々に遅くなる。十七夜以降を立待月、居待月、寝待月、更待月などと呼ぶ(Wikipedia)ように、はじめ立って月の出を待っていたのが、だんだん遅くなるので座って待ち、寝て待つようになる。だから夜半をとうに過ぎて満月が昇ることはない。西から月が昇ることもないように。



エロティック・ジャポン

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面白い本 (岩波新書)

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