毎日新聞の書評ページのコラム「好きなもの」にグラフィックデザイナーの佐藤晃一が「雑草」と「石」と「空」を挙げている(8月9日)。その「雑草」について、
数年前の早春、近くの道端で2種の小さな花を見つけた。顔を近づけてよく見ると、ほんとうに小さくて、ひとつは直径4ミリもない黄色い5弁の花、もうひとつは紫がかった唇形で、どちらも地面に張りつくようにして陽を浴びている。私はガリバーにでもなったかのように目も心もミクロになって眺めた。それ以来、行く道はどこも雑草のギャラリーとなり、花屋は娼婦の館と化してしまった。冒頭の2種は「カタバミ」と「トキワハゼ」と判ったが、雑草は四季で姿を変えるので、名前を覚えるのもたいへん。しかし夏、様々な葉の形に繁った緑の塊の前に立つと、実に何ともすばらしいものだ。
この雑草について、岩瀬徹と川名興は共著『雑草博士入門』(全国農村教育協会)のまえがきで、「最も身近な植物たち」と言っている。
「雑草」と聞いて、どんなイメージが浮かぶでしょうか。やっかいな草、じゃまな草、根強い草などという思いを抱く人が多いかも知れません。たしかに、田畑に侵入して作物に影響を与えたり、庭や空き地にはびこって見苦しかったりすることもしばしばです。それで古くから雑草を抑えるためにさまざまな努力が続けられてきました。ですが、雑草は人と最も密接な植物といえます。数千年以上の昔から、人は自然を拓き、野性の植物を採ったり育てたりしてきました。その歴史の中で多種多様な植物が生まれ、進化してきました。そして直接利用できるものは作物、利用しないものは雑草とされます。(中略)
雑草は人の暮らすところならどこにでも生えています。田畑のほか、校庭や空き地、道ばたなどは雑草の世界です。逆に、人の手のあまり及ばないところは野草の世界です。雑草がはびこるか、野草が巻き返すかは、人の手の加わりかたによって決まってきます。
岩瀬たちは雑草と作物、それに野草という区分けをしている。次に広田伸七 編著という『ミニ雑草図鑑』(全国農村教育協会)のまえがきを読んでみる。
「雑草という草はない」昭和天皇のお言葉である。確かに夏の道端で焼けるようなアスファルトの裂け目に、したたかにも生長する雑草。1週間も放っておくと忽ちはびこってくる庭の雑草にも、立派な和名と学名が付いている。しかし、雑草という言葉は日常使われている。「雑草のように逞しく」とか「雑草防除」から雑草学会と言う雑草を研究する学会も存在する。雑草と言う言葉には市民権が与えられている。
昭和天皇は生物が好きで、それで十把一絡げのような「雑草」という言葉を嫌い、「雑草という草はない」と言ったのだろう。広田は昭和天皇の言葉を枕に振っておいて、「雑草と言う言葉には市民権が与えられている」と結論付けて、その言葉を否定している。
おそらく広田は自分が何を書いているか分からないのだろう。また「編著」としているのは、数冊の植物図鑑からの引用で成り立っていることを意味しているらしい。

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