沢木耕太郎『深夜特急』をやっと読む

　沢木耕太郎『深夜特急』新潮文庫全６巻をやっと読んだ。やっとというのは、このロングセラーをまだ読んでいなかったからだ。平成６年に初版が発行されて、最近までにどれも50刷りを越えている！！
　読み始めて１日１冊、日曜日は読まないので６冊を７日間で読み終わった。文章にリズムがあって読みやすく、細部まで書き込んだところと省略したところの按配がすばらしい。香港から始まってタイ、マレーシア、シンガポールを経て、インドのデリーから陸路、それもバスでロンドンまで１年２カ月をかけて旅行している。その10年後ようやく旅行記にまとめている。平均すると２カ月の旅を200ページ前後の１冊に書いていることになる。それで大幅な省略が可能だったのだろう。また細部が充実しているのは詳しいメモも取っていたのだろう。
　マレーシアのペナンでは娼婦を抱えたホテルに投宿する。そこのマネージャーに日本人客を勧誘するために働いてくれと誘われる。

……そのような日本人を傭い入れるほど日本人の客が多いのだろうか。私が訊ねると、いまは少ないがもっと増やしたいのだ、と答えた。
「日本人、いい人ばかりな」
　多分、ここに来る日本人の客は金離れがよく、女に対してはあまり無理な注文を出さないのだろう。（後略）

　それで思い出したことがある。ブラジルの娼婦も日本人客を好むという。理由は、早い、小さい、変なことをしないからだと。
　インドでは悲惨なエピソードが多い。

　ある時は、７、８歳の少女についてこられたことがある。つい弱気になり、小銭をあたえようかな、と立ち止まった。すると、少女が小さな声でひとこと言う。
「10ルピー」
　物乞いに金額を指定されたのは初めてだった。しかも10ルピーといえば大金だ。首を振って歩き出すと、慌てて私の眼の前に廻り込んで、言い直した。
「６ルピー」
　私がまた首を振ると、やがてそれは５ルピーになり、４ルピーになり、３ルピーになった。その時になって、やっと意味がわかった。少女はその金額で自分の体を買ってくれないかと言っていたのだ。

　10ルピーは当時約350円だという。
　またインドのアシュラムには電気も水道もきていなかった。

……しかし、便所には紙が用意されていなかった。インドでは、紙を使わず、すべて左手で処理するのだ。用が済むと、まず瓶（びん）の水を汲んで手を洗い、それから流す。自分で紙を用意して使うこともできなくはなかったが、私はこのインド式の便所使用法にすぐ慣れた。水は冷たくて気持ちがよく、なにより紙で拭くよりはるかに清潔になった。
　便所で手が使えるようになった時、またひとつ自分が自由になれた気がした。

　これはキノコの写真家伊沢正名さんと一緒だ。伊沢さんは日本でトイレも使わずにこれを実行している。
・トイレでせずに10年の伊沢正名さん（2010年５月25日）
　さて、第３巻の巻末の此経啓助との対談で沢木が述べている。

沢木　　僕は外に出て大学の評価が変わりましてね。最もよい学生は東京農大と拓大の学生でした。彼らには生きていく活力みたいなものがあったんです。（中略）旅先でいろんな大学の学生たちとすれ違ったけど、東京農大生と拓大生を越える水準の学生はいなかったですね。

　インドからパキスタン、アフガニスタン、イラン、トルコ、ギリシャ、イタリアを経て、モナコからフランスのニースへ向かう。地中海の海岸に沿った道路をバスで走りながら、

　道はしばらく海から離れていたが、ひとつの坂を越えると不意に左手前方に輝くばかりの海が姿を現した。太陽の光をいっぱいに受けて、海水は何層にも色を変えている。青く、蒼く、碧い……。しかし、どのような文字を当ててもその美しさには追いつきそうもない。浜はわずかの幅しかなく、すぐ横を走っている海岸通りには高層の建築物が迫っている。にもかかわらず、浜にいちばん近い層の海の水の色は、ほとんど透明に見えるほど澄んでいる。私は呆けたように眺めながら、胸の奥で呟いていた。
〈これはひどいじゃないですか〉
　ただ単に海の色が美しかったからではない。これほどまで自然が柔順に人間に奉仕しているということが、何か許しがたいことのように思えたのだ。

　この本を読んで東南アジアやインドに旅行した若者たちが大勢いたのではないか。K君は香港の九龍城やバンコクに行ったし、N嬢はインドやメキシコを一人で旅行している。若者たちに与えた影響は他に類を見ないほど大きなものがあったのではないか。
　とにかく楽しい読書だった。未読だったら、ぜひ１冊でも手に取ることをお勧めする。１冊だけで止められるとは思わないけど。