丸谷才一が「月とメロン」(文春文庫)で百目鬼恭三郎の「現代の作家101人」(新潮社)を取り上げて、「いかにもこの筆者らしいヅケヅケした筆致、大胆不敵な書きぶりで、しかしツボはキチンと押さへて書いてゐて、玄人筋には好評でありました」と書いていた。で早速読んでみた。朝日新聞に連載したのが1973年から1975年ころで、かなり古いことはたしかだ。しかし今でも十分通用するところがすごい。
遠藤(周作)のまじめな純文学が、問題意識の強いわりに、読者に訴える力の弱いのは、たんに読者のカトリシズムに対する無知のせいばかりではあるまい。文体に主題を支えられるだけの密度がないのである。この欠陥は「死海のほとり」でもなお克服されていない。かえって、気楽に書いたふざけた小説のほうが、作品としては成功しているようにみえる。中でも「わたしが・棄てた・女」は、ふざけとまじめが融合した傑作といってもよろしいであろう。
たしかに「わたしが・棄てた・女」は良かった。
早乙女貢について、
ちょっと以前までは、クラブ雑誌作家という呼称があった。「講談倶楽部」などのいわゆるクラブ雑誌を発表の舞台にしていた作家のことで、早乙女もはじめはこの、クラブ雑誌作家であった。
クラブ雑誌の小説は、読者に頭を使わせずに、低俗な欲求を満たすことだけが要求されている。従って、文章は下品でなければならず、また、登場人物は紋切り型で、それが、判で押したように月並みな行動パターンと、必然性のないご都合主義の筋書きにのって動く。これが、クラブ雑誌小説の特徴であった。
そして、この、クラブ雑誌小説の癖は、いったん身についてしまうと、なかなか抜けるものではないらしい。クラブ雑誌作家から抜け出して、国民文学作家という称号を奉られた吉川英治の後期の作品でさえ、まだどことなく下品なにおいが残っていたほどなのである。
だから、早乙女が、いまなおクラブ雑誌臭から抜けきっていないのも当然であろう。
三浦綾子について、
三浦の小説の欠点としてまずあげられるのは、信仰をつよめるための試練として悪人を登場させるため、悪人はたんに悪の見本みたいになって、人間らしさを感じさせない点であろう。東映のやくざ映画で、善玉をいじめる紋切型の悪玉と同じ処理なのである。(中略)
次にあげられる欠点は、文章に味のないことだろう。自伝を読むと、三浦の文学修業といえるのは、アララギ派の短歌作りであったようだ。真実の追究には熱心だが、ことばの美しさを軽視しがちになるのが、この派の欠点である。自伝にのっている短歌をみる限りでは、三浦もまた、真実を吐露しさえすれば芸術になると素朴に信じている一人ではなかろうか。
このように、題材は優れていながら、作品そのものは底の浅い感じを免れていない。これはひとつには、文章のせいであろう。渡辺の文章は、ありきたりの文学的描写を除くと、結局、事物を過不足なく伝える役割にとどまり、事物を超えたところまで作品を引き上げる力に欠けているのである。
純文学か通俗小説かは、物語性が弱い強いで決まることではなくて、文章に力によって左右されるものなのだ。
渡辺淳一は斎藤美奈子によって、妊娠小説の筆頭に挙げられていた。百目鬼のは毒舌というより、真っ当な評価と言えるのではないか。
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