『樹影譚』と『出生の秘密』を読む

 丸谷才一『樹影譚』(文春文庫)を数年ぶりに読み直したのは、丸谷が亡くなって誰かが本書を強く勧めていたからだったと思う。鹿島茂だったかもしれない。一緒に三浦雅士『出生の秘密』(講談社)も併せて読むと良いともあった。
 『樹影譚』は村上春樹『若い読者のための短篇小説案内』(文春文庫)でも取り上げられ、高い評価が与えられている。とくに小説の技法的なものが評価されている。
 それで『樹影譚』を読み、ついで『出生の秘密』を読んだ。『出生〜』は600ページを越えている。タイトルどおり作家の出生の秘密をテーマにしている。『樹影譚』が主人公の母親が実は本当の母親ではなく、それを彼は晩年になって実の母親と思われる老女から示唆されるという構図になっている。三浦は『樹影譚』に紹介されているマルト・ロベールの『起源の小説と小説の起源』を取り上げる。フロイトユングが語られる。
 また『樹影譚』に戻って、ドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』に言及される。アルチュセールが引用され、ラカンが語られる。この辺りとても難しい。
 出生の秘密に関して、国木田独歩『運命論者』と谷崎潤一郎蘆刈』が取り上げられる。それに中島敦が加えられ、芥川龍之介に論述が広がる。その芥川から漱石に話が及ぶ。漱石の出生については三浦の得意な分野だろう。岩波新書に三浦の『漱石−母に愛されなかった子』という著書がある。漱石に関連して老子が語られる。漱石の出生に関して、

吾輩は猫である』は捨子の話であり、『坊つちやん』は孤児の話である。非人情を標榜する『草枕』もまた、世を捨てた、逆にいえば世に捨てられた画家の眼を通して描かれた小説である。漱石は、老荘や禅の思想を通して、出生の秘密からあたうかぎり離れようとしながら、逆にそのただなかに立っていたのだ、ということになる。

 また漱石の特徴は「僻み」だと指摘する。僻みの弁証法漱石に骨がらみであった。ヘーゲル弁証法も僻みの精神以外の何ものでもない。
 最後の章で三浦は再び丸谷才一に戻る。今度は丸谷の処女作『エホバの顔を避けて』だ。これは旧約聖書の「ヨナ書」から材を取られている。
 めくるめくような読書体験だった。見事なものだった。難しくて分からないところも多かったけれど。三浦の優れた解釈にただただ圧倒されたのだった。こんな優れた解釈ができるのなら、もう一歩進んで独創的な思想を構想できるのではないだろうか。
 さて、丸谷才一『樹影譚』について、村上春樹三浦雅士も高い評価をしているけれど、私は何だか耳かきに似ているという印象だった。先っぽだけが曲がっている耳かきのように、そのほとんどが「前提」の語りに費やされていて、最後にようやくテーマが現れる。丸谷の小説はまだ3冊しか読んでいないけれど、どれも高い評価をすることができない。


樹影譚 (文春文庫)

樹影譚 (文春文庫)

出生の秘密

出生の秘密

若い読者のための短編小説案内 (文春文庫)

若い読者のための短編小説案内 (文春文庫)