井上ひさしの説く60代のセクシュアリテ

 井上ひさしは第119回直木三十五賞(1998年秋)の選考委員をしていた。この時受賞しなかった重松清「定年ゴジラ」に対する選評を書いている。

 「定年ゴジラ」(重松清)は、文章も小説技術もうまい。たとえば第7章の、12枚撮り使い切りカメラを軸に話を進めていく手際のあざやかさには舌を巻いた。さりげなく最新のトピックを盛り込む技にも敬服せずにはいられない。だが、全体に信用できないところがあって、一例をあげれば、60代の人間のセクシュアリテ(性、性現象、性生活、性的欲求など)を、いったいどうお考えなのだろうか。性と決定的に訣別しなければならないのが60代である。したがって頭の中は、性に急接近する10代の若者と同様に、セクシュアリテに関することがらで一杯なのだ。ここに触れずに定年後の人間が書けるだろうか。ところが、ここに登場するのは、セクシュアリテと縁を切った人たちばかりで、あまりにもきれいごとすぎる。そこになにか信用できないものを感じた。

 うーん、同じ定年後の60代の人間として、そんなに「性に急接近する10代の若者と同様に、セクシュアリテに関することがらで一杯なのだ」ろうか? これは個体差かもしれないが。少なくとも若者とは切迫感が全く違うと思うのだ。10代後半から20歳ちょっとの頃は、ほとんど性に関する悩みで狂いそうだった、と言ってもさほどオーバーな物言いではないだろう。
 そういえば、精神人類学の藤岡喜愛も思春期の心は特別だと言っていた。普通ロールシャッハテストの分析を依頼するときは、被験者に関する情報は年齢も性別も何も伝えないのが決まりだが、被験者が思春期の年齢である場合のみ年齢を伝えると書いていた。そうしないと異常者と診断されてしまうことがあるからだと。それほどにもこの時期の心は性的狂乱に近いのだ。
 ちなみに、重松清が受賞を逃したこの時の直木賞受賞者は「赤目四十八瀧心中未遂」の車谷長吉だった。いや車谷が相手では誰も手が出まい。


 車谷長吉について以前書いたコラム
車谷長吉の「文士の魂・文士の生魑魅(いきすだま)」を読む(2010年9月9日)
「悩みのるつぼ」の車谷長吉のユニークな回答にコメントする(2010年3月7日)
車谷長吉の「悩みのるつぼ」の回答(3)(2009年9月17日)
直木賞作家・車谷長吉の奇人変人ぶり(2009年8月7日)
半分以上の女性は信用できない(2009年7月12日)
車谷長吉の危ない身の上相談(2009年6月14日)