井上ひさしのトラウマ

 1988年の第1回山本周五郎賞山田太一の「異人たちとの夏」が受賞した。選考委員の一人が井上ひさしだった。その選評を読むと、井上はこの受賞作を無条件に評価しているわけではなかった。

 山田太一氏の「異人たちとの夏」、点数は3.98です……。たいへん素晴らしい小説だと思う半面、大きな欠陥もある。最大の欠陥は、お化けの現場に間宮という人物が立ち会っている点です。
 主人公であるシナリオ・ライターが離婚をした。主人公から見ると奥さんのほうに問題があったと思われる。僕も同じような体験をしているのでよく分かるんですが、気が狂ったり自殺未遂したりするかわりに、お化けに会った。主人公は離婚の痛手で、気が狂っていたんです。気がおかしくなって幽霊と会っていた。(中略)
 とにかく間宮が問題ですね。間宮と、別れた妻を軸にして理解し合うというのも、僕には分からないんです。ここから先は僕の個人的な体験が入って勝手な言い分になりますが、一度、女房と別れてごらんなさい。女房を奪った男と、そうやすやすと仲よくなれるとお思いですか、とさえ言いたくなるんですね。(中略)
 だから、読みやすさ、台詞のうまさ、そして全体からいろんなものがにじみ出てくる豊穣感という点から行くと、これが一番かもしれない。ただ、僕の根底でなにかこの作品を拒否しているものがあるんです。こんなきれい事であの悔しさは書けない、絶対に書けないぞという気持ちがあるものだから、山田さんには本当に気の毒なんですが点が辛いんです。

 ちなみに「点数は3.98」と言っているが、最高点が5なのだ。「僕は4点を中心に言っているんです」という1節もある。

 井上は、似たことを別のところでも書いている。「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」(新潮文庫)の「最後にもう一言」だ。

 こういう作文教室を開くからには、井上のやつ、アイデアを盗もうとしているんじゃないか、という方も以前、いらっしゃいましたが、人から盗んだもので作品はできません。長期記憶は人それぞれですから、書いているうちに、やはり気に入らなくなるんですね。
 人の真似をするということは、入り口ではたやすいんですが、仕事を進めていくと、これは全く不可能なんです。人のアイデアを借りて、いいものを書くことは不可能なんです。
 わたしもそう題材に困っていません。妻に逃げられたときの、あの悲しさと解放感……あれなんか、まだ書いていませんからね。(爆笑)

 この挨拶をしたのが1996年だった。井上は最初の美人の奥さんに逃げられた後、米原万里の妹と再婚している。「あの悲しさと解放感」と言っているが、そのとおりだ。さて、私には再婚の意志はない。


異人たちとの夏 (新潮文庫)

異人たちとの夏 (新潮文庫)

井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室 (新潮文庫)

井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室 (新潮文庫)