いまどきの文学に関する中島梓の過激な発言

 中島梓ガン病棟ピーターラビット」(ポプラ文庫)は作家がすい臓ガンにかかり、築地の国立がんセンターに入院して手術を受ける闘病記だ。手術がどんなに大変かよく分かって興味深い。入院中、中島は病室で本を読む。

ガン病棟のピーターラビット (ポプラ文庫)

ガン病棟のピーターラビット (ポプラ文庫)

「むさぼるように本を読んだ」一時期の記憶のある人は幸せだ、と思います。いまのこのとてつもない本の洪水のなかで、あれほど「本の虫」であった私でさえ、「次々に新しい本に手をのばし、あとからあとから出てくる文学賞受賞作品やベストセラーをすべて追いかけてゆく」なんてことはとうていする気にもならないでいる。いや、もうずいぶん昔から私は「いまどきの本」を読むのをやめてしまいました。なかには面白い本もあろうと思いますし「いい本」もあるはずだと思います。また、みんながそうやって「いまの本」を読むのをやめてしまったら、私自身の商売にだってかかわるわけです。
 それでもなお、今回の入院や、ひさびさに再読した『南の島に雪が降る』(加東大介)を経て、私は、「やっぱり、いまの時代は何かが根本的に間違っているのだ」と思わざるを得ませんでした。入院中、私は『ガン病棟』(ソルジェニーツィン)を読み『魔の山』(トマス・マン)を読み、『細雪』(谷崎潤一郎)を読み、揚句『小公子』(バーネット)や『小公女』(同)を読んだのですが、「いまの手にとる気にもならない単発のあふれかえるミステリーやライト・ファンタジーやBLや『普通の小説』、それに手にとったけれどげんなりしてしまった週刊誌連載をまとめただけのエッセイと、いったい何処が違うのだろう」と思って、なんだか憮然たる心持でした。おのずと出てきた答えは「志の高さが違う」というものでしかなかったからです。
 むろん「志の高さ」だけが、それらの作品を永久に残る「文学作品」とし、いまの作品を全部「読み捨ての書き飛ばしのゴミの山」にしているわけではありますまい。なかにはむろん、いつまでもひとの心に残る「いまの作品」も当然ありましょう。しかし、20年後、50年後、100年後のガン病棟の、何ヶ月も閉じ込められて苦しい治療をしている人々が、ふと手をのばし、そして夢中になり、一瞬闘病の苦しみを忘れるような、「そういう小説」であるかどうかーー

 こういう一節もある。

 日頃私がひまつぶしに愛読しているのは、池波正太郎さんのエッセイ(小説は読まない)や東海林さだおさんのエッセイですが、そういうのはもういつも読んでますからこの際は役に立たないので、いろいろと「このへんならいいかなあ」と思う男性作家、女性作家のエッセイを買ってきてもらって読むのですが、しかしこれがねえ……つくずくと泣きたくなるくらい「ハズレ」が多いのですねえ。
 最初から最後まで「どこかに行ってはビールを飲む」話しか書かない男性作家がいます。べつだん何がどうというわけじゃないんだけど、1冊読み終わったあとになんというかこう、実ーに索漠とした気分が残り「うう、なんたる時間の無駄」と思ってしまう女性作家がいます。それでもまだそれはマシなほうで、なかには読んでるうちにムカムカムカムカしてきて途中で本を放り投げてしまうエッセイなんてのもあったりします。

 過激な発言だ。ビールばかり飲んでいるのは椎名誠だろう。私も中島梓のこの発言に全体として異論はない。だけど中島の文章って皆こうなのだろうか。初めて読んだのがこのエッセイだけど、作家とは思えない下手な文章だ。行間を風が吹き抜けている。