書評:片山杜秀「近代日本の右翼思想」by田中優子

 朝日新聞に掲載された田中優子片山杜秀「近代日本の右翼思想」に関する書評。

 私は右翼がわからない。なぜ民族主義者なのに日米安保体制に大賛成なのか? なぜ三味線より軍歌が好きなのか? なぜ受験生みたいに鉢巻きをするのか? なぜ古来の地元の神社に行かずに新しい靖国神社に行くのか? 疑問は尽きない。そんな私を本書はかなりの部分助けてくれた。じつにすっきりした。著者はなかなかの才人とみえる。
 目次が面白い。(中略、id:mmpolo:20080424)目次だけ読んでも、著者が右翼をどういう人々だと考えているか、よくわかるのである。
 まず最初に定義をしてくれたことがありがたい。「保守」と「右翼=反動」は違う。保守とは現在に依拠し、現在を守る勢力のことである。少しずつ着実に前に向かって動いて行くところに特徴がある。「右翼=反動」とは、左翼が未来に期待する勢力であることに対し、過去に依拠した勢力である。「後ろ向きに反(そ)って動く」ところに特徴がある。反って動くとは、「失われた過去に立脚して現在に異議を申し立てる」ことだという。驚いた。これは、私が毎日やっていることと同じではないか。私は右翼か? しかしどうやら違うらしい。右翼が右翼である根源は、「近代文明の進展の前に失われてゆく美しい農村とか、麗しい日本語の響きとか、何を持ち出してきても、いつも、それを天皇と結びつけて」しまうことなのである。
 しかし天皇は右翼が嫌う現代日本の代表でもあるから、右翼は結局現在と過去が癒着した迷宮に入り込み、天皇がいる今この時は素晴らしいと思うことになり、思考は停止するのだという。本書はこの、明治以来の右翼の「思考停止」の歴史を丹念に追っている。これが存外に恐い話で、私は読みながら何度も現代社会のことを思い起こした。日露戦争後の日本は、まるで経済グローバリズム下にある現代のように規範を喪失していた。急速な工業化、都市化、共同体の崩壊が起こり、絶対者を求める心情が蔓延し、新興宗教と狂信が出現したのである。
 私は右翼入門書のように面白く読んでしまったが、本書はしっかりした右翼思想史の本である。北一輝井上日召大川周明権藤成卿安岡正篤と金鶏学院のみならず、西田幾多郎、阿部次郎、伊福部隆彦山田孝雄田辺元長谷川如是閑夢野久作、そして「てのひら療治」の三井甲之や江口俊博、「身体論」の佐藤通次など、多彩な人物が登場する。いわゆる右翼とは思えない人々までここに現れるのは、「世の中を変えようとする、だがうまくゆかない」から「すべてを受け入れて頭で考えることがなくなれば、からだだけが残る」までの、目次にある筋道をたどるからである。ここに至って私は、狂信的テロリズムが抑え込まれたあとに、霊感や占いが盛況している目下の日本を思った。
 しかし右翼の最大の特徴は、あらゆる決定を天皇にゆだねたことである。今のおおかたの日本人はどうか。天皇を相対化してしまったかわりに、「国際社会」という仮面をかぶったアメリカ合衆国に総てを委ねている。思考停止という事態は同じようなものかもしれない。