佐藤春夫『南方熊楠』を読む

 佐藤春夫南方熊楠』(河出文庫)を読む。南方は柳田国男と並ぶ民俗学の大御所だ。民俗学以外にも植物学や粘菌などの研究で名高い。同時に奇人変人でも類がないほどだった。佐藤は同じ和歌山県出身の南方を戦後間もなくの1952年に伝記にまとめている。
 南方の伝記としては鶴見和子に優れた著書があるし、唐沢大輔も中公新書で書いている。私はまだ読んでいないが、中沢新一にも『森のバロック』と題する講談社学術文庫があり、南方を論じている。
 佐藤のこの本は、最初『近代神仙譚――天皇南方熊楠孫逸仙』と題されていたらしいが、なるほど昭和天皇のエピソードが半ばを占め、それも天皇の熊野行幸のエピソードを詳しく語っている。戦後まもなくのことで、佐藤春夫が戦前戦中の天皇崇拝の気分を色濃く引きずっているような印象を受ける。
 そういう意味でも、鶴見や唐沢の熊楠論を読んだあとではさほど感心することはなかった。
 原題にある孫逸仙とは孫文のことで、若いころロンドンにわたって大英博物館に出入りした熊楠は彼の地で孫文と知り合っている。孫文は日本を訪れたときに和歌山に熊楠を訪ねてきている。二人には深い友情があったのだ。熊楠は天皇に対しても粘菌などを御進講する機会があり、そのときいろいろ破天荒な講義をしたとかで、しかし天皇から深い信頼を得て、後日天皇は熊楠のことを歌に詠んでいる。


  雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ

 この歌は本書にはまだ書かれていないが。天皇が個人のことを歌に詠むことが異例のことだという。原著発行後65年経ってやっと文庫に収められたことからも、本書の評価がどこらへんにあるか想像できるというものだ。佐藤春夫の評価という意味でも。