仁藤淳史『加耶/任那』を読む

 仁藤淳史『加耶任那』(中公新書)を読む。副題が「古代朝鮮に倭の拠点はあったか」というもの。

 「まえがき」から、

 加耶(かや)とは、3世紀から6世紀にかけて、朝鮮半島南部にある洛東江の流域に存在した十数ヵ国の小国群を示す名称である。(中略)日本では『日本書紀』の記載から「任那(みまな)」と呼ばれることが多い。

 

 さらに『日本書紀』では「任那日本府」とも呼ばれている。今まで日本の歴史家は古代朝鮮半島南部に日本の支配地域があったとし、韓国の歴史家は日本の支配はなかったと言う。それらのイデオロギーを離れて論じるために仁藤は「加耶任那」という題名を付けている。

 古代朝鮮を論じることの難しさは、確かな文献がないことだ。特に百済が早く滅んだので文献が少ない。『日本書紀』に百済のことが記されているが、『日本書紀』の編纂者たちは、仁藤によると、『日本書紀』の典拠「百済記」の年代を修正している。神功記は「百済記」記載の干支について、干支の周期60年の倍数である120年、場合によっては180年遡らせて、卑弥呼が登場する3世紀の中国史書に合わせようとしている。そのため、干支が記載された「百済記」の記述は、年代移動によって4、5世紀の事実を記していると考えられている。

 仁藤は日本や中国の歴史書を探り、朝鮮半島南部の複雑な歴史を探り出す。日本の古代史を興味本位にかじってきた私にとって、任那の歴史が解きほぐされて面白かった。同時にまだまだ不明なことが多いことも分かった。

 中でも、「『日本書紀』顕宗紀3年是歳条における「紀生磐宿禰」は、加耶王の配下にあった西日本の豪族だった可能性が高い。ヤマト王権とは相対的に独立した、現地の勢力と結託する独自の活動だったといえる」と言っているが、日本にヤマト王権とは別の主権者が存在したと言っているように聞こえる。もう一歩で古田武彦の言う九州王朝に届くのではないか。

 さらに、馬韓と称された朝鮮半島南部西端に位置し、百済の領域支配を受けていなかった栄山江流域には倭系の前方後円墳が存在する。これら前方後円墳は、500年前後の一時期だけ造られたものだ。そして、この前方後円墳の埋葬者たちは筑紫出身の倭系であり、その一部がその後、倭系百済官僚になったと考えられる、と。

 加耶および任那について、読みやすい新書という形でかみ砕いて教えてくれた。とても有益な日本古代史、朝鮮古代史だと思う。