サリンジャー、村上春樹・訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社)を読む。昔、野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』を読んでとても気に入った記憶がある。もう50年から55年くらい前だ。そんなに古い記憶なので、内容はほとんど覚えていなかった。この小説は大きな事件はなく、小さなエピソードの積み重ねなので、どこかが強く記憶に残るというものではない。
何しろ50~55年前と言ったら相当な昔なのだ。例えてみれば、明治維新から50年は大正7年になる。55年後は大正12年だ。大正天皇は明治維新の記憶はないだろう。まだ生まれてもいなかったのだから。
その大正12年は3年後には大正15年、その12月15日に大正天皇が亡くなり、昭和となる。叔母はいつも、私は昭和生まれだと言っていたが、本当は大正15年生まれだった。叔母の同級生がわが檀家寺である渕静寺の和尚様小原泫祐さんだった。小原泫祐さんはわが師山本弘の先輩画家でもあった。小原さんはわけ合って若栗玄と名前を変え、2009年に83歳で亡くなった。
まあ、そんなわけで50年というのは長い長い年月なのだ。昔読んだ小説の細部を忘れてしまっても仕方ないことだろう。でも、末尾近く忘れない一節があった。
主人公のホールデンがアントリーニ先生と会ったとき、先生がヴィルヘルム・シュテーケルという精神分析学者の言葉を教える。
「未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ』
私がおぼろに覚えている野崎孝の訳は「未熟な者はことに当たって英雄的な死を選び、成熟した者はことに当たって卑屈な生を選ぶ」というものだった。
さて、昔あんなに気に入った『ライ麦畑~』は意外にもつまらなかった。私が年を取りすぎたのだろうか。まあ、これは若者向けの作品には違いないが。

